映画「三丁目の夕日’64」について再考

今日、たまたま5年前の自分のブログを読み返す機会があった。映画「三丁目の夕日’64」の感想だつたのだが、男女の出会いに触れた箇所があった。

@@@映画では、男女のカップルが三組登場します。子供が生まれます。茶川のお父さんが死にます。その中でさまざまな情景が映しだされるわけです。私の琴線にふれた箇所は二カ所。堀北真希と森山未来の最初の病院での出会いのシーン。うでに怪我した堀北に森山が、「キズは残るが、勲章のようなキズだ」と評価する場面が一つ。もう一つは、茶川が息子のようにかわいがっていた古行淳之介を家から追い出すシーンです。

男女の出会いは一瞬で決まるような気がします。「キズは残るが、勲章のようなキズだ」という言葉をきっかけに堀北は森山に恋をするわけですが、それすらもある種の理屈です。堀北が恋をしたのは、そのうでに手当をした森山の掌の感触かもしれないし、そのときの眼差しかもしれません。出会ったときの瞳だったかもしれません。いずれにせよ、表現できないもの、しかしながら「何か」が堀北の心をゆさぶったわけです。森山も堀北の「何か」に心を揺さぶられたわけです。二人の行く手に迷いが生じた中で、堀北は、その「何か」を信じ、すべてを賭けたのですが。そこに私は涙しましたね。@@@

続いて、先日のサイコロ占いで、男女について述べた箇所

@@@例えば、ある人を好きになったとしよう。顔が好みとか、背が高いとか、気持ちが優しいとか言いがちだが、それは後だしジャンケンのようなものでしかない。過激な言い方をすれば、出会う前から好きだったというのが真実である。@@@

見事にぶれていませんね。しかも、進化している。この5年間で、より簡潔に、かつ直感的になっています。

以上、自画自賛してみました。5年前のブログですが、読み返すとなかなかいいことを言ってます。興味のある方は是非ご覧ください。

ALWAYS 三丁目の夕陽 ’64

八面体サイコロによる易占いをご紹介。

物語、ストーリィは可逆性のない時間を生きる我々人間には唯一の表現方法と思われがちだが、そうではない。

例えば、ある人を好きになったとしよう。顔が好みとか、背が高いとか、気持ちが優しいとか言いがちだが、それは後だしジャンケンのようなものでしかない。過激な言い方をすれば、出会う前から好きだったというのが真実である。

言葉とか物語は、群盲が象を撫でるようなもので、いつまでたっても象はつかまえることはできない。象は撫でる前から象なのだから。

物語とは、起承転結からなるもので、因果律からなる。これに対峙するのが共時律なのだが、実は我々はあまり慣れていない。共時律の向こうに、象は立っている(かもしれない)。

という前ふりで、紹介するのがサイコロ占いであります。ビデオを作成しましたので、興味のある方はご覧ください。ただし、約20分。長いかな。

勢いで作成したものですから、微妙に間違っている箇所が多々あります。ご留意ください。

易卦の吉凶一覧表を下に掲載しました。印刷して携帯してもらうと、簡単にいつでもどこでも吉凶を占うことができます。

キューブラー・ロス「人生は廻る輪のように」

人生は廻る輪のように は長いこと「つん読」していたのだが、このたびいよいよ読ませてもらいました。予想していた以上におもしろかったなぁ。キューブラー・ロスはたくさんの著書があるのだが、まだ何も読んでいない人は、この一冊をお勧めします。自伝的であり、なおかつ面白い。

著作ともに広くしられており、いまさら、特になにも取り立てて言うことはないのだが、文中にて死後の段階について説明している箇所が非常にまとまっており、普遍性も高いと思われるので、その部分を紹介してみよう。

面接のデータを分析して、わたしは死亡宣告後の経験をいくつかの特徴的な段階にまとめた。

 

第一期 まず最初に、肉体からぬけだして空中に浮かびあがる。手術室における生命徴候の停止、自動車事故、自殺など、死因のいかんにかかわらず、全員が明瞭な意識をもち、自分が体外離脱をしている事実にはっきりと気づいている。さなぎから飛び立つ蝶のように、肉体からふわっとぬけだすのだ。そして、自分がエーテル状の霊妙なからだをまとっていることに気づく。なにが 起こったのかは明噺に理解している。その場にいる人たちの会話が聞こえる。蘇生を試みる医師チームの人数を数えることも、つぶれた車から自分の肉体を救出しようとしている入たちの姿をみることもできる。ある男性は自分を轢き殺して逃げた車のプレートナンバーを覚えていた。自分の死の瞬間にベッドサイドで親族がいったことばを覚えている人はたくさんいる。

第一期で経験するもうひとつの特徴は「完全性」である。たとえば、全盲の人もみえるようになっている。全身が麻痺していた人も軽々と動けるようになり、よろこびを感じる.病室の上空で踊りはじめ、それがあまりにたのしかったので、生還してからひどい抑うつ状態になった女性もいる。実際、わたしが面接した人たちが感じていた唯一の不満は、死んだままの状態にとどまれなかったということだった。

第二期 肉体を置き去りにして、別の次元に入る段階である。体験者は、霊とかエネルギーとかしかいいようのない世界、つまり死後の世界にいたと報告している。ひとりで孤独に死んでいくことはないのだと知って、安心する段階でもある。どんな場所で、どんな死にかたをしようと、思考の速度でどこにでも移動することができる。自分が死んで、家族がどんなに悲しむだろうかと思ったとたんに、一瞬にして家族に会うことができたと報告する人は数多くいる。たとえ地球の反対側で死んでも、その事情は変わらない。救急車のなかで死亡した人が友人のことを思いだしたとたんに、仕事場にいるその友人のぞぱにきていたと報告する人もいる。

この段階は、愛した人の死、とりわけ、とつぜんの悲劇的な死を嘆き悲しんでいる人にとっては大きななぐさめになる時期でもあるということがわかった。がんなどでしだいに衰弱して死をむかえる場合は、患者も家族も死という結末にそなえるだけの時閻がある。しかし、飛行機の衝突事敗はそうはいかない。飛行機事放で死んだ本人も、最初は残された家族に劣らず混乱している。ところが、この段階に入ると、死んだ人もなにが起こったのかを解明するだけの時間がもてるようになる。たとえば、TWA八OO便の事故で亡くなった人たちは、海岸でおこなわれた葬儀に家族といっしょに参加していただろうと、わたしは想像している。

面接をした全員が、この段階で守護天使、ガイドー子どもたちの表現では遊び友だちーなどに出あったことを覚えている。報告を総合すると、天使もガイドも遊び友だちも同一の存在であり、つつむような愛でなぐさめてくれ、先立った両親、祖父母、親戚、友人などの姿をみせてくれる。その場面は生還者たちに、よろこぱしい再会、体験の共有。種もる話の交換、抱擁などとして記憶されている。

第三期 守護天使にみちびかれて、つぎの第三期に入っていく。そのはじまりはトンネルや門の通過で表現されるのがふつうだが、人によってそのイメージはさまざまである。橋、山の小道、きれいな川など。基本的にはその人にとっていちばん気持ちのいいイメージがあらわれる。サイキックなエネルギーによって、その人自身がつくりだすイメージである。共通するのは、最後にまぶしい光を目撃することだ。

ガイドのみちびきで近づいていくと、その強烈な光となって放射されているものが、じつは、あたたかさ、エネルギー、精神、愛であることがしだいにわかってくる。そして、ついに了解する。これが愛なのだ。無条件の愛なのだ。その愛のカは途方もなく強く、圧倒的だったと、生還者たちは報告している。興奮がおさまり、やすらぎと静けさがおとずれる。そして、ついに故郷に帰っていくのだという期待が高まってくる。生還者たちの報告によれば、その光こそが宇宙のエネルギーの、究極の本源である。それを神と呼んだ人もいる。キリストまたはブッダと呼んだ人もいる。だが、全員が一致したのは、それが圧倒的な愛につつまれているというごとである。

あらゆる愛のなかでもっとも純粋な愛、無条件の愛である。何千、何万という入からこの同じ旅の報告を聞くことになったわたしは、だれひとりとして肉体に帰りたいと望まなかったことの理由がよく理解できた。

しかし、肉体にもどった人たちは、異界での体験がその後の入生にも深速な影響をあたえていると報告している。それは宗教体験とよく似ていた。そこで大いなる知恵を得た人たちもいた。

予言者のような警告のメヅセージをたずさえて帰還した人たちもいた。まったく新しい洞察を得た人たちもいた。それほど劇的な体験をしていない人も、全員が直硯的に同じ真理をかいまみていた。すなわち、その光から、いのちの意味を説明するものはただひとつ、愛であるということを学んだのである。

第四期 生還者が「至上の本源」を面前にしたと報告する段階である。これを神と呼ぷ人たちもいる。過去、現在、未来にわたる、すべての知識がそこにあったとしかいえないと報告した人たちも多い。批判することも裁くこともない、愛の本源である。この段階に到逮した人は、それまでまとっていたエーテル状の霊妙なからだを必要としなくなり、霊的エネルギーそのものに変化する。その人が生まれる前にそうであったような形態としてのエネルギーである。人はそこで全体性、存在の完全性を経験する。

走馬灯のように「ライフ・リヴュー」(生涯の回顧)をおこなうのはこの段階である。自分の人生のすべてを、そこでふり返ることになる。その人が生前におこなったすべての意思決定、思考、行動の理由が逐一あきらかにされる。自分のとった行動が、まったく知らない人もふくめて、他者にどんな影響をあたえたのかが、手にとるようにわかってくる。ほかにどんな人生を送ることができたのかも示される。あらゆる人のいのちがつながりあい、すべての人の思考や行勤が地球上の全生物にさざ波のように影響をおよぼしているさまを、目の前にみせられる。

天国か地獄のような場所だ。とわたしは思った。たぷん、その両方なのだろう。

神が人間にあたえた最高の贈り物は自由意志による自由選択である。しかし、それには責任がともなう。その責任とは、正しい選択、周到な、だれに恥じることもない、最高の選択、世界のためになる選択、人類を向上させるような選択をするということだ。生還者の報告によれば、「どんな奉仕をしてきたか?」と問われるのはこの段階である。これほど厳しい問はない。生前に最高の選択をしたかどうかという問いに直面することが嬰求されるのだ。それに直面し、最後にわかるのは、入生から教訓を学んでいようといまいと最終的には無条件の愛を身につけなければならないということである。

こうしたデータからわたしがひきだした結論は、いまでも変わっていない。それは、富んだ人も貧しい人も、アメリカ人もロシア人も、みんな同じ欲求をもち、同じものをもとめ、同じ心配をしているということだ。事実、わたしはこれまでに、最大の欲求が愛ではないという人に出あったことがない。248-252頁

翻訳者(上野圭一)のあとがきがよかったので、その部分も付け加えておこう。

現代文明は、じつはその根底において「偶然」を究極の根拠とする、あやふやな文明である。まず宇宙の発生自体が「偶然」の産物であるとされている。第一原因が設定できないために、「偶然の量子的ゆらぎ」に端を発する「ビッグバン」から「偶然」にはじまったことにならざるをえないのだ。生命の起源にしても、無機物質が化学進化によって「偶然」に複雑化して有機物質となり、生化学進化によって有機物質から「偶然」に生まれたのが代謝と増殖をおこなう生命だとされている。その生命の進化にしても、自然選択という必然だけでは説明できず、「突然変異」という「偶然」との結合を強調せざるをえないという事情がある。

物質も生命も「偶然」の産物であるとする思想からでてくるものは、当然のことながら、一種のニヒリズムである。みずからの出自をたずね、本源を探っていこうとしても。最後にぶつかるものが「偶然」でしかなければ、そこに意味や価値をみいだすことがむずかしくなるからだ。キューブラー・ロス博士が生涯をささげた医学の世界においても、そのニヒリズムは徹底している。

からだは物質である分子の集合体であり、死んだら無になるだけであり、脳が不可逆的に損傷すれば生きた臓器をとりだしても罪にはならない。

ところが、「偶然」はじつは、思想的にも明確な概念ではない。『二〇世紀思想事典』[丸山圭三郎他著、平凡社)によると、偶然は「予測、説明、理解をこえていること(とくに注目すべき事象や一致・符合)の生起を形容するために用いられる。行為者が意図しなかった事象に出あうことを形容するのに用いられるごともある」。予測、説明、理解ができるようになれば、同じ事象も「偶然」ではなく「必然」になる可能性がつねにあるといってもよさそうだ。

そう考えると、肝心なことをすべて「偶然」のせいにしようとする現代文明は、じつは現象界の背後に存在する(はずの)つながりの糸をみる目をもたない、未熟で無明の文明であることがわかってくる。「いのちの唯一の目的は成長することにある」というキューブラー・ロス博士が一貫して提唱してきたのは、その無明から脱して成長しようということであった。それも、文明自体の未熟を糾弾するのではなく、個人の目ざめと成長をつうじて文明の成長をうながそうという提案である。個人が目ざめ、成長をとげる過程をさまたげているもの、それが死にたいする恐れである。臨床的にその死をみつめつづけた結果、博士がついに手中におさめたのは「死は存在しない」という、足元をすくわれるような結論だった。肉体の死はもちろん存在する。しかし、蝶がさなぎから羽化するように、役目を終えた肉体からなにかがぬけだし、さらに長い長いいのちの旅をつづける。存在するのは物質としての肉体の死だけであり、いのちの終焉としての死は存在しない。そう気づいたとき、人は大いなる安心の境地にいたり、つぎの段階へと成長をとげる。蝶の羽化のように…。

「思い残し症候群-親の夫婦問題が女性の恋愛をくるわせる」読みました。

思い残し症候群―親の夫婦問題が女性の恋愛をくるわせる (NHKブックス)読みました。以前紹介した(?と思う)ファミリー・シークレット―傷ついた魂のための家族学と似たような内容で、最近、子供たちも家を離れてしまって、家族とは何かということを考えているので、家族学とでもいえるこのような本は面白いですね。また、この思い残し症候群の「つかみ」は、父親が娘の恋愛に重要な影響を与えるということなので、父親として、俺はどのような役割を果たしているのかということを知りたいということもこの本を読んだ理由でもあります。

このところ、子供たちもそれぞれの恋人と呼べるような人を両親に紹介したいといい始めてきたので、面談前にちょっと勉強をということもありました。娘の恋人なんかは、通常は父親の天敵ともいえる代物ではありますが、思い残し症候群によれば、娘の恋人選びは父親の責任といっている箇所もあるので、そういったものを読んで、天敵を理解しておこうということもあります。ここまで、非常にわかりにくい文章が続いているような気がしますが、ま、デリケートな箇所なのでご理解よろしくお願い申し上げます。ということで、まずは、序章から紹介しよう。

・・・女性の思い残しで一番多く、かつ重要なのが父性愛の欠如である。実父から父性愛を得ることは、女性に取って根源的な願望であるために、欠如すると太きな空虚さを感じるし、またその影響力も大きい。母親からの悦びの共感も重要だが、恋愛に悪影響を与えるのはおもに父愛の欠如の方である。 ・・・。

女性にとって、父性愛を調達することは、男性が、年上の女性から母性愛をもらうよりもむずかしい。なぜなら、父性愛とは性を超えた聖なる愛だからである。男性は、歳をとっていても、若い女性を性の対象として見てしまうために、性を超えた愛を出すのがむずかしいからだ。・・・。
さて、「思い残し症候群」について述べるにあたり、家族機能についての解説をまず第一章で行いたい。なぜなら、家族機能不全の中から思い残し症候群が発生するからである。家族機能が低下すると、まるで動脈硬化したように愛情が家族全体に行きわたらなくなる。
ところが女性は、そんな家族閾係に不満を感じているにもかかわらず、恋人と自分の家族関係と同じ関係、すなわち愛がなかったり、しがみつかれる関係を作ろうとする。女性は、父親と自分との関係と、恋人と自分との関係がイコールになるような恋人選びをしてしまう傾向が非常に高いのだ。その結果、家族機能不全の家庭で育った女性の多くが恋愛不全になりやすいのである。17-19頁

ということで、娘の恋愛関係は、父親の影響が深いということである。責任は重大ですね。その父親を家庭で規定するのは、母親であります。最近、岳父がお亡くなりになったのですが、思い出せば、岳父の立場というか、そういったものが、実は現在の私の立場と似通ったものを感じたことが多々ありました。この本の45ページを読んで、納得したので紹介します。

女性は実家を再現しようとする

女性は、ほっておくと実家と同じ夫婦関係を再現しようとする。なぜなら、・・・自分はこれまで生き延びてこられたという成功体験があるからだ。つまり、実家の両親と同じような夫婦関係を作れば、自分の命だけは保障される。死ぬことはない、安全である。と無意識に考えてしまうのである。女性はそういう意味では、非常に保守的だ。確かにもくろみ通り、肉体は死なない。だが、精神的幸せは保証の限りではない。・・・

人は経験したことしか理解できない動物だ。・・・彼女のみならず、今の多くの若い人達も知らない。愛や信頼は未知なる世界の出来事になっているのである.映圃や小説の世界のできごとなのだ。現実の人間関係には執着や依存しかないと思っている。結婚とは束縛し合うことだと思っているのだ。 45-47頁

家庭で、最も重要な役割を果たすのは、母親であるというのが一般的な常識ではあるが、実は、父親はそれ以上に重要なのだ。

家族の愛の流れ(父親が起点)

家族の愛の流れをひとことで表現すると、「父→母→子」となる。母親が家族の中心であり、母親がもっぱら子どもに愛情をそそぎ世話もするが、しかし、愛情の起点は父親である。これがポイントだ。子供の世話という行為だけに着目すると母親が子育ての主役のように見える。だが実は、父親の愛が母親に流れないと、母親から子には愛が流れないのだ。なぜなら、父親が母親を愛さないと、母親の心は安定しないからだ.・・・父親に愛されていない妻はイライラしてしまう.イライラしている人は、決して人を愛せない。たとえ我が子でも愛せない。・・・安心の安という字はウかんむりに女と書く。つまり、家の中で女がどっしりと構えているのである。要するに、母親が楽しく元気にしている家はうまくいっていて安心ということである。母親の心が安定していれぱ、子どもも安心なのだ。
その母親の心の安定に重大な影響を与えているのが父親の愛なのである。・・・48-49頁

とまあ、こんなわけで、父親の重要性について改めて認識させてもらいました。娘の紹介する恋人は、実は父親の通信簿ということになりそうです。

うーむ、しかし、昔から通信簿は・・・。

 

前世療法の探究を読みました。

前世療法の探究を読みました。面白かったですね。アマゾンのカスタマーレビューも概ねいい評判です。

催眠の施術に多くの経験を持つ著者が、最初は懐疑的だった前世療法―米国精神科医が体験した輪廻転生の神秘 について、臨床事例を子細に検討して経験を重ねるうちに、フォロワーとなっていくさまがわかりやすく書かれています。どうしても前世療法―米国精神科医が体験した輪廻転生の神秘を信じられない方々にお薦めの好著といえそうです。

本書の中でもっとも大事な事例、「天明三年の火山噴火に際し、人柱になったタエの前世」は、Youtubeで以前に見ておりました。いま、再度検索してみましたが、私がみたビデオは現在みつかりませんでしたが、テレビ画面をビデオで撮影したものがありました。これは、「タエの前世」ではなく、同じ方の違う前世、ネパール人であった頃についてです。ネパール語を知らないひとが、催眠でネパール語を語る(真正異言)にフォーカスを当てたビデオとなっています。Youtubeで「真正異言」を検索して見つけました。テレビで放映されたものとのことですが、最初見たときは、びっくりした覚えがあります。

そのビデオの背景について、子細に著されていたので、その点でも非常に得した気分がします。

参考までに、「あとがき」の一部を以下に紹介します。

 

前世療法に取り組み始め、「前世記憶」「中間世」「神的存在者」などの解釈に思いを巡らせていた筆者に、大きな示唆を与えてくださったのは、畏敬する成瀬悟策先生でした.先生は、二〇〇四年二月、明治学院大学で開かれた、策二九回日本教育催眠学会の対談席上で、「脳は心の家来です」「脳の病変によって動かないとされている脳性麻痺の動作訓練を催眠暗示でやってみると、動かないとされていた腕が動くようになりました。しかし、脳の病変はそのままです、こうしたことから身体を動かすのは脳ではなく、『オレ』であることにやっと気づきました.私のこの考え方を、正統医学は賛成しないでしょうが、二一世紀の終わりには、私の言ってることが明らかになるでしょう」と言われました,筆者の理解が誤っていなけれぱ、成瀬先生のこの考え方は「心・脳二元論」の言明であることになります.海外でも、W・ペンフィールド、J・エックルズ、R・スペリーなど優れた大脳科学者が、自らの実験研究をもとに「心・脳二元論」に至ったことを思うと、催眠研究歴六〇年の成瀬先生の言明には重さがあり、解釈としての「死後存統仮説」をとることに躊躇していた筆者には、深く共感できるお話でした。

一般に信じられている言説、つまり、心は脳の随伴現象であり、脳の消減とともに心も消滅してしまえぱ、生前に経験されたものはすぺて棄却されることになる、という言説は、唯物論科学の立場から、その立場上構成されている「信念」や[主張」をそのまま表現したものであって、その言説自体は、科学的に確定された手続きによって、証明・検証されたものではないのです。[心・脳二元論」は、この事実を認め、物質である脳の消減後も、脳とは別個の実在である「オレ(意識体)」の、死後生存可能性を否定しないことを意味します。したがって、成瀬先生のお話を契機に、「死後存続仮説」は、ありうべからざる非科学的憶説として忌避されるものではけっしてない、と益々思うようになりました。