仙台ヨドバシカメラ前にて異様な人混みに遭遇

夕方、仙台ヨドバシカメラの裏側といっていいのか、立体駐車場前入り口というのか、そのあたりに異様(普通とは違う意味です)な人混みに遭遇。車の整理にあたっていた近くのガードマンにきいたのだが、よくわからないとのこと。

それで、人混みの中の二、三人に声かけて聞いてみた。以下にご紹介。

任天堂DSのドラクエ9の地図交換のために来たという。関東方面から新しい地図を持ってきてくれた方が来るとの情報をインターネットで調べて来た。

毎日ではないが、月に一度くらいは、この場所(ヨドバシカメラ)に来てみる。

応えてくれた方々は年輩から若者まで。ていねいに教えてくれた。話してくれているときの目がきれいなのが印象的だった。趣味とか娯楽というのは、きれいな目をつくるのが目的なのかなどと考えてしまった。

そのときの写真をご紹介しよう。

カメラが使い込んだ携帯電話のものなので、写りが悪いですが、ご勘弁。

因みに、この記事を書く前にインターネットで検索してみたのですが、以下のサイトが見つかりました。興味のある方はご参照下さい。

http://www12.atwiki.jp/baramos/pages/28.html

http://www.unkar.org/read/schiphol.2ch.net/ff/1249107385

キャタピラー /若松孝二 寺島しのぶ

キャタピラー、見てきました。予想以上によかったですね。

映画を見たあとにヤフー映画を読んだのですが、映画レポート「キャタピラー」単なる反戦映画を超えた哀しくも酷い性愛のスペクタクルは全く間違っていますね。宣伝用キャッチコピーとしては使いたくなるけど、嘘はいけないよね。

映画館のチラシの裏面に書かれた感想のなかでは、おすぎと周防正行氏が素直だったかな。

おすぎ:若松監督の訴えたいことが心の底からわかる映画です。身体の自由が思うようにならない夫と介護する妻のふたりの切なさ、ツラさを思い涙が止まりませんでした。全国民必見の一本です。

周防正行:単なる反戦映画ではない。戦争がもたらす悲惨を通じて、深く人間を洞察しようとする映画だ。若松孝二監督の並々ならぬ思いを真っ向受け手立つ寺島しのぶの強さと美しさに圧倒された。

前の映画『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)』でも感じたのだが、若松孝二監督のまなざしは優しい。「キャタピラー」も酷な作り方もできたのだろうが、していない。

たとえばセックスシーン。女優が寺島しのぶ、相手が胴体と頭だけ。いかようにもできるシーンなのだが、普通の夫婦の性描写をし続けている。夫婦の日常の性生活ほど見ておもしろくないものはないだろうと思うのだが、それが続く。だからおもしろくはない。しかし夫婦の臨場感は増す。

他の登場人物も、素直にまじめに撮っている。結果的に戦争の醜さがあぶり出されてくる。これが映画でしょう。

惜しむらくは、エンタテメイント性に若干欠けていたかなとは思うのだが、ここはよく考えてもらいたい。つまり、戦争映画のほとんどがエンタテイメントを前に押し出したものだということだ。それは反戦映画ではなく、むしろ好戦映画。そこを勘違いしちゃ、いけませんぜ。

経済危機のルーツ / 野口悠紀雄

経済危機のルーツ ―モノづくりはグーグルとウォール街に負けたのかを読みました。おもしろかった。簡潔でわかりやすい。読んで良かったと思いました。日本のだめさかげんがよくわかりました。

著者は東大工学部を卒業して大蔵省に入った方なので、金融、特に金融工学には詳しい方なのでしょう。アメリカとイギリスが脱工業化を目指して金融立国で成功した経緯をていねいに描いています。また、アイルランドの金融立国(成功例)も勉強になりました。

そして、日本(それとドイツ)では脱工業化できなかったので凋落したとしています。

著者は最後に「謙虚さを取り戻し、優れたものに学ぶ勇気をもう一度持つこと。今の日本でもっとも求められるのは、このことだ。本書がそのための足がかりになれることを、心から願っている。」と締めています。

さて、日の丸飛行隊をご存じだろうか。以下に参考までにwikipediaからの抜粋を紹介しよう。

札幌オリンピック(1972年)の70m級(現在のノーマルヒル)ジャンプにて日本のジャンプ陣(笠谷幸生金野昭次青地清二)がメダルを独占した事に始まる。後に、冬季オリンピックやワールドカップ等で日本のジャンプ陣を日の丸飛行隊と呼ぶようになった。・・・長野オリンピック後のルール変更で再び長期低迷に入り、2002年のソルトレイクシティオリンピックでは団体5位、個人では船木のラージヒル7位が最高という成績に終わった。・・・

2006年、日本のジャンプについて現・日本ナショナルチームヘッドコーチのカリ・ユリアンティラは「フィンランドやオーストリアなどのジャンプ強国と比べて踏み切りの技術が未熟でレベルが低い。日本の技術は1990年代後半までは良かったがその後のルール変更による対応が全くできていない。しかも若い選手が全く成長していない上に主力が世界の強豪国と比べてあまりにも高齢だ・・・。

私がいいたいのは、野口悠紀雄氏はいわばカリ・ユリアンティラと同じ事をいっているのだということです。そして、日本をターゲットとした”ルール変更”については言及されていない。しかし、本当に大事なのはこの”ルール変更”なのだ。

踏み込んでいえば、日本が「謙虚さを取り戻し、優れたものに学ぶ勇気をもう一度持つて」金融立国したとしても、それはただの「詐欺」になるだけだということです。アメリカが世界の最強国であるということ、世界の強者と弱者、もしくは支配者と被支配者の座標軸がこの著書からばっさりと失われているのだ。

つまり、野口氏が「究極の錬金術」と称している、アメリカの金融立国とは、最強国だけができる国家規模の「詐欺」の別名なのだ。アメリカは、国家の凋落をくい止めるべく、なりふり構わずに、ルールを作り続けた。それが金融立国。

3兆ドルのネット負債から1000億ドル近いネットの金融収入を生みだしたのだから、「無から有を創り出している」というより、「マイナスからプラスを創り出している」わけである。「究極の錬金術」とも言えるものだ。(p221)

言い換えれば、世界第二の経済大国日本を搾取すべく放ったルール改正の切り札が金融だったのだ。日本の資金はアメリカに吸い上げられ、何十倍の利益をあたえつづけた。日本の失われた10年とか20年はアメリカを最強国にし続けた富の源泉だった。

司馬遼太郎について野口悠紀雄氏は本書の中で次のように書いている。

彼(司馬遼太郎)は東海岸の伝統的な都市であるボルティモアやシカゴの90年代の姿を見て、アメリカ経済が没落したと述べている。・・・そうではなく、アメリカの経済構造が変化していたのだ。司馬遼太郎も、そうした変化を見抜けなかったのである。

アメリカの変化は見抜けなかったとしても、日本をみごとに評価し続けていたと思うのだがどうだろうか。すくなくとも次のようなことはいわないだろう。

トーマス・フリードマンは、ニューヨーク・タイムズのコラムで、「アイルランドの教訓はきわめてシンプルだ」とし、「高校と大学の授業料をゼロにせよ。法人税制を簡素化・透明化し、税率を引下げよ。外国企業に門戸を開け。経済をオープンにせよ」などと列挙した末に、「英語を話せ」としている。

確かに、英語を話せることは、重要な要因だったのだ。21世紀型のグローバリゼーションにおいて、これは不可欠の要因だ(「イエーツの詩の原文が英語でないことを知って驚いた」と7で書いたが、英語とゲール語はきわめて異質なので、「なぜ英語でもあのように美しい韻律を保っているのだろうか?」と、いまでも不思議に思っている)。

北海道は面積がアイルランドとほぼ同じで、人口は1.5倍程度だ。だから、北海道は、政治の力に頼って公共事業を誘致することばかり考えず、アイルランドをモデルにして世界から直接投資を呼び込めば、倍の豊かさになれたとも言える。ただし、それには、英語を使えることが前提だ。「21世紀型のグローバリゼーション」実現のために英語は不可欠であり、日本はその点で大きなハンディキャップを負っていることになる。

「90年代の発展は、ヨーロッパの周辺国において実現した」と3で述べたが、これも英語力と無関係ではない。小国には自国語で大学の教科書を作るほどの人口はいないから、高等教育の教科書はどうしても英語になる。それだけでなく、日常の仕事でも英語が不可欠だ。ヨーロッパの小国では、町のタクシーの運転手でも完全な英語を話す。ドイツやフランスなどの大国の国民は、英語がそれほどうまくはない。90年代における「英語不適応大国の凋落」は、必然の現象であったのだ。
いまにも英語を公用語にしろといわンばかりの文章だが、こういったしょうもないことどうして書くのだろうか。まずは、日本人の脳を勉強してもらいたい(私のブログで”クール・ジャパン”について述べたところに詳しく書いています。参照下さい)。
と、まあ不満はたくさんあるのだが、それでも整理されてわかりやすいということはこの本のいいところではあります。実際、はじめて合点がいったことなどは多々あり、勉強になりました。

ソーシャル・ウェブ入門/滑川海彦

ソーシャル・ウェブ入門 Google, mixi, ブログ・・・新しいWeb世界の歩き方読みました。ソーシャルという切り口はいいと思います。

その中でソーシャル・ブックマーク・サービス(SBM)についてまとめた箇所があるので、それをご紹介します。

ソーシャルブックマークというのはウェブ上でブックマーク(お気に入り)を共有や管理できるウェブサービスですが、、実は今日、WordPressにソーシャルブックマークの追加ボタン/アイコンを設置するプラグインを導入したところです。タイトルの下に並んでいるかわいいアイコンをクリックして利用します。いい機会なので、利用いただければと思います。

もう一度簡単にソーシャルブックマークの利用の流れを確認してみたい。

  • 自分の気に入った記事をブックマークする→
  • その記事の他のユーザーによるブックマーク数を見る→
  • その記事の投稿履歴ページを見る→
  • 投稿したユーザーのページを見る→
  • 参考になりそうなら自分のnetworkに登録する→
  • ときどきnetworkをチェックする

これで自分が過去に見た記事をいつでも自由に引き出して再利用できるだけでなく、自分と関心・趣味が同じユーザーによる記事を常時フォローすることができる。さらに「友だちの友だち」を辿って情報収集ネットワークを簡単に広げていくことができるのだ。

自分ひとりで記事をブックマークするのに比べて何倍も効率よく情報収集ができ、自分とは違った視点で集めた記事を見るのも参考になる。
特に自分が不案内な分野の情報を素早く集めたい場合、ソーシャルブックマークは強力なッールになる。

検索ボックスから大雑把なキーワードで記事を探し、関連のありそうな記事の投稿者のブックマークページをかたっぱしから見ていくと、そのうち間題の分野を主な関心テーマにしているユーザー、いわばその分野の専門家が見つかる。

そういう専門家を探したら、その専門家が購読している他のユーザー(deLicio.usの場合network)を開けばさらに別の専門家が見つかる。たくさんのユーザーからnetworkに入れられているユーザーはその分野での評価が高いだろうと推定できる。

ソーシャルサービスの基本法則「群集の英知」を利用して、おおざっぱながら素早く価値判断もできる。

発見した記事の多くはRSSなどによる記事配信をしているので、これを購読するとさらに情報収集の効率が上がる。
このフィード購読には各種フィードリーダーを利用するのが便利だが、これは後で触れる。

広島、長崎、原爆、そして終戦

8月は、日本人にとって、平和を考える月である。広島原爆の日が8月7日、長崎原爆忌の日が9日、そして終戦記念日が15日。

戦争や核爆弾のない世界を、夢ではなく現実にすることができるのかは、大きなテーマだが、今日は、過去に、現実に行われた平和活動(失われた文明―一万二千年前の世界 (講談社現代新書 274) 165-168ページ)を紹介しよう。

アショカ王の秘密結社-九未知会

インドを統一したチャンドラグプタの孫であったアショカは、白分の偉大
な祖父の名をけがさないような人間になりたいと考えた。統治者にとっては、戦争こそ、白分の名前を永遠に残す最も確実な手段だった。彼は軍隊を率いて、隣りのカリンガ王国に向った。カリンガの住民たちは、必死になって抵抗した。ある戦闘では、アショカの兵士たちは敵兵を七千人以上も殺した。戦闘が終わったばかりの戦場にアショカはやってぎた。彼は死体が一杯横たわっている光景をながめて、強いショックを受けた。
それ以来アショカは、残された生涯のすべてを科学の振興、仏教の普及、建設活動に捧げた。戦争の悲惨さが彼に強い印象を残し、人間の頭脳と知識が人間の殺し合いに向けられることの絶対にないよう全力をつくす決心をしたと伝えられている。そのためにアショカは、これまでに存在した秘密結社の中でも最大といわれる結社、九未知会をつくった。
この結社の目的は、人殺しの手段についての知識が人々の手に入るのを防止することにあった。この結社は、今日でも存在し続けているという意見がある。たとえば、カルカッタ駐在のフランス第二帝国領事で、インドについての名著をたくさん書いているジャコリオである。インドが植民地だった時代に駐在していた意義ら崇神していたイギリス人=高官もまたこのような意見を述ぺている。

この秘密結社が二千年を経た今日でも、なお存続していると断言するためには、まだ十分な資料をわたしたちはもっていない。とはいえ、このような目的をもった結社がかつてつくられたということそれ自体が、非常に大きな意義をもっているのである。

アショカは、知識が破壊のために使われないようにするため、高度の知識は、秘密にしておこうとした。しかし、このように行動したのは、アショカが唯一の人間ではなかった。先見の明あるすぐれた統治者や政治家はこのように行動している。今日の言葉を使うなら、「大衆殺戮の兵器」と称すべきものは、過去において、使用が禁止されていたのである。

しりぞけられた「人殺し兵器」

一七七五年、フランスの発明家、デュー・ペロンが国王に謁見を申し出た。彼の言葉によれば、フランス国家の将来はこの会見にかかっていた。デュー・ペロンは、自分が発明したものを国王に直接打明けようと思った。ルイ十六世は、デュー・ペロンとの引見に同意した。デュー・ペロンの助手たちは、入念に包装した大きな箱を宮廷の庭園にもちこんだ。それから退場していった。デュー・ペロンは、どんなに強い敵でもいとも容易にたおせるような武器を、発明したのだった。この武器が採り入れられたら、フランスは国王の好きなように、領土の拡張ができるであろうと述べた。彼が示した武器は、今日の機関銃の元祖ともいうべきものであった。それは一度に二十四発も弾丸を発射することができた。

だが、デュー・ペロンは、国王から称讃の言葉を受けることができなかった。国王はぺロンの言葉を冷たくさえぎって、引き退がるように命令した。ルイ十六世と彼の大臣たちは、デュー・ペロンの発明を「入殺しの野蛮な兵器」としてしりぞけたのであった。デュー・ペロンは、ひどい悪者、人類の敵と宣告された。フランス国王はデュー・ベロンが発明した武器が、どこか他の国王の手に入るのを心配して、これを防止する手段をとっている。

これ以前の時代は、弓と矢が最も恐ろしい殺人兵器と考えられていた。ローマ法王はこれの使用を制限しようとして、特別勅書を出している。それはばね仕掛けの大弓の照準を、より正確に定めるための三脚台その他の台を使用禁止にしたのである。「このようなやり方は弓の射手の品性をひくめ、たたかいを非人間的なをのにする」と勅書のなかではいわれていた。この禁止命令は、その後二世紀間守られた。アフリカのペチュアナランド(ボツァナ)の国王の一人、シャムバ・ボロンゴンゴが戦闘に投槍を使うのを楚止しているのも、右と同じような入道的配慮からである。