日本経済新聞のコラム「春秋」がこの新聞の限界を示している。

今朝の春秋を読んで、確信した。大手メディアはもはや福島原発並にメルトダウンしていると。

まずは、春秋をご紹介。

春秋

2011/8/3付

宮沢賢治がつくったイーハトーブという言葉には不思議な響きがある。ふるさと岩手を理想郷に見立てた賢治は、そこに思いきりハイカラな名をつけた。悠然たる山河。澄みわたる高い空。賢治が思いを託した風光はいまも変わらない。

▼なにしろ面積は全国の都府県でトップ。東京都が7つも入る。そんな広大な土地だというのに、県内の2市町で産した牛肉から暫定規制値を超す放射性セシウムが出てくると、岩手の牛すべてが出荷停止になった。2市町はともに県の南端。それでも「他地域で規制値を超えない保証はない」と厚生労働省は言う。

▼ことは食べ物の安全と安心だ。健康を考えれば慎重にならざるを得ないのだが、どこかで汚染が見つかれば全県でアウトとは農家にとってなんとむごい話か。名高い「前沢牛」のブランドもある岩手県が受ける打撃はとりわけ大きい。きのうは新たに栃木県の牛も出荷を止められた。波及を恐れぬ産地はなかろう。

▼原発事故の罪を、あらためて思う。事故が起きたころ、どれだけの人が牛肉汚染にまで考えを及ぼしただろう。そういう想像力を持ち合わせてこなかった日本でもあるのだ。童話「グスコーブドリの伝記」で賢治は、イーハトーブの国で災厄と戦う人間を描いた。知恵の力で、大きな困難を乗りこえる物語である。

文章としては悪くない。流れるように完結している。だれかの日記なら、それで問題はない。しかし、この春秋は日本経済新聞の毎日の表紙を飾っている連載コラムなのである。「どれだけの人が牛肉汚染にまで考えを及ぼしただろう。そういう想像力を持ち合わせてこなかった日本でもあるのだ。」とはよく言ったものだ。

震災直後にアメリカは福島原発より80km圏内を危険区域と設定して立ち入りを禁止。イギリスも自国民の東京以北の滞在を認めなかった。そういった「事実」にたいして、日本のメディアは、おかかえの太鼓持ち科学者を動員して、安全であると言い続けた。

牛肉は言うにおよばず、日本を覆う放射能汚染を考えなければいけない日本国民の想像力が、欠けているのならば、その想像力を奪ったのは間違いなく、日本経済新聞をはじめとする大手メディアの責任である。こういった責任をさりげなく、叙情的な文章で(恣意的に)流してしまおうとする春秋(の書き手)には、全くあきれてしまうより他にない。

同じ日、日本経済新聞の一面の裏側、最後のページに五木寛之のインタビュー記事が掲載されている。

8.15からの眼差し-震災5ヶ月/山河破れて国あり/公に不信、亀裂は深刻

原発事故で安全を強調する政府の発表に、不信を強めた人も多いというインタビュアーに対して、五木は「それについては驚かなかった」と述べている。敗戦の夏、中学一年生で平壌にいた五木は、政府の安全だという発表を信じて酷い目にあっている。淡々とした口調ではあるが、政府は信ずるものではないと断じているのだ。

日本経済新聞の春秋の書き手には、情緒的な文書を飾る暇があれば、いまからでも遅くないから、ジャーナリストとしてやるべき事をしっかりやっていただきたい。

やるべき事とはなにか、いうまでもないことだが(それでも言わなければいけないということには泣きたくなるほど残念であるが、あえて言わなければならない)真実を知らせることである。

--今、日本人はどういう立場に立たされているのか-というインタビュアーに応える五木の答えはシンプルではあるが事実だ。春秋とは逆で、言葉を弄する必要がない、事実に力があるからである。

私たちは、原発推進、反対を問わず、これから放射能と共存していきていかざるを得ない。たとえ、全部の原発を停止しても使用済み核燃料を他国に押し付けるわけにはいかない。放射能を帯びた夏の海で子供と泳ぎ、放射能が染みた草原に家族でキャンプをする。その人体への影響の度合いは、専門家によって、あまりにも意見の開きがある。正直、判断がつきません。

だから、政府の情報や数値や統計ではなく、自分の動物的感覚を信じるしかない。最近出した『きょう一日』(徳間書店)はという本に込めたのは、未来への希望を語れないとすれば、きょう一日、きょう一日と生きていくしかないという実感です。第一の敗戦の時はまだ明日が見えた。今は明日が見えない。 だから、今この瞬間を大切に生きる。

国は私たちを最後までは守ってくれない。

日本経済新聞朝刊最終面「文化」の記事より

 

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