日本経済新聞の不可思議な特集、菅前首相インタビュー

唐突な、不可思議な日本経済新聞の特集、9月21日朝刊4面に、原発事故菅前首相インタビュー。

インタビューとあっても、よく読むと、「菅直人前首相のインタビューを交え、世界を揺るがせた10日間の真実を追った」となっていて、全体的には総括的な記事となっている。肝心のインタビューは要旨として右下に囲い記事がある。インタビューの日時はどこにも掲載されていない。インタビューは、いつどこでされたものなのだろうか?

というのは、すでに今日9月6日の朝日、読売、東京新聞が、原発事故直後の模様と、 政府の対応に関する菅前首相の単独インタビューを、それぞれ大きく掲載していたのが話題になっていたからだ。それから2週間も過ぎての日本経済新聞のインタビュー(要旨)記事は、何をものがたるのか?朝刊の4面全部を使った大きな特集記事なのだが、社説などでも特段の言及はされていない。なんとも、不可解で面妖な記事ではある。なにが言いたいのかよくわからない。とりとめのない、特集記事なのだ。

もっとも、次々に明るみに出る原発事故の事実に関して記事を書くならば、日本経済新聞といえ、原発を肯定する記事は書けるはずもない。そういうことで、とりとめのない記事になったというならば、理屈はわかるのだが・・・。

とりあえず、記事を掲載します。

「最悪、国会移転も想定」 菅前首相、原発事故を語る

2011/9/21 3:30

最悪のシミュレーションでは東京からの国会移転や首相官邸の移動も念頭にあった――。菅直人前首相は日本経済新聞のインタビューで3月11日の東日本大震災後、東京電力福島第1原子力発電所の事故の深刻化も想定し、200~300キロメートル単位での退避を検討したことを明らかにした。(本文中の肩書は当時、太字は前首相の発言)

「原発事故の直後に最悪のシミュレーションを考えてくれと指示した。退避区域が200~300キロメートル単位にまで広がるのが最悪の想定だった。10万~20万人の避難も大変なのに、対象が1000万人、2000万人となれば国が機能しなくなる。少なくとも国会は移転しないといけない。国会の周りも人っ子一人いなくなる。首相官邸から全部、西の方に行くことになる」

一体、炉心がどうなっているのか、格納容器の爆発はあるのか――。首相官邸では状況を把握できない日々が地震発生から10日間ほど続き、関係者のいら立ちも募っていた。

並行して進めたのが、最悪のシミュレーションに基づく対処の検討だ。依頼先は経済産業省原子力安全・保安院などではなく、様々な分野の専門家らだった。菅氏が「最悪の事態になったら東日本がつぶれることも想定しなければいけない」と口にしたとして、物議を醸したのもこのころだ。

今では1~3号機とも炉心溶融に至ったと判明している。だが、幸い格納容器の爆発などによる高濃度の放射性物質の飛散は何とか回避した。それはたまたまという見方もある。

「なぜベントがすぐに実施されなかったのか、理由はよく分からない。東電としての意思決定が遅れたのか、技術的な問題があったのか。いずれにせよ、このままだと伝言ゲームだと思い、原発の現場の責任者と話をしようと視察を決めた」

問題となった3月12日早朝の菅氏の第1原発の視察。その時の重要課題はベント(排気)だった。東電、保安院、原子力安全委員会のメンバーが首相官邸の危機管理センターの一室に集合。格納容器の圧力を下げるため「ベントやむなし」で一致していた。だが実施は遅れる。

震災当時、東電は勝俣恒久会長と清水正孝社長のトップ2が海外や関西方面に出ていて不在だった。それが意思決定の遅れにつながったとの指摘は多い。

一方、炉心溶融の危険がある中、菅氏が第1原発の視察を強行したことで、現場の混乱に拍車をかけた可能性がある。国のトップが原発に滞在している最中に放射性物質をまき散らしかねないベントの実施をはばかったとの見方だ。菅氏が原発を離れた午前10時すぎ、1号機でようやくベントが始まった。だが既に遅かった。午後3時半すぎ、1号機建屋が水素爆発する。

菅氏は視察ヘリの中で安全委の班目春樹委員長に水素爆発が起きないか、ただしている。「元素図鑑」を事務所の書棚に備え、化学や原発に詳しいと自認する菅氏ならではの質問だった。彼の答えは「大丈夫です。起きない。格納容器には窒素が入ってますから」だった。

■「東電、話せる相手2人しかいなかった」

3月14日深夜、東京電力の清水社長が電話でこう口にする。「放射線量が高過ぎて現場で作業ができません。第1原発から退避して第2原発に行きたい」。衝撃を受けた海江田万里経済産業相は菅氏に報告。15日午前3時だった。枝野幸男官房長官にも同じような話が入る。

「基本的に第1原発から撤退したい、との要請だ。第2原発(に撤退)なら、なにもできない。6つの原発と7つの燃料プールを放棄すれば1週間から1カ月の間に大量の放射能をまき散らすのは明らか。そんな選択はありえない」

菅氏は清水社長を首相官邸に呼び出す。

「社長は『撤退と言っていません』とも『撤退したい』とも言わず、はっきりしない。結局、東電できちんと話ができたのは2人しかいなかった。第1原発の吉田昌郎所長と勝俣恒久会長だ。あとは役人以上に役人なのか、責任をかぶらないよう物事を考えている」

菅氏は15日早朝、東電本店に乗り込む。社員らを前になりふり構わず怒鳴った点に批判は残るものの、政府・東電統合本部の立ち上げによって、情報がスムーズに流れ始めた。米政府は日本政府がいくら説明しても「まだ、隠しているのでは」と疑いの目を向けていたが、統合本部の設置を機に解決へ向かう。

■「炉心溶融」食い違った官邸と保安院

「重大な事故が起きたという猛烈な危機感があった。冷却できないということは炉心溶融(メルトダウン)だ」

福島第1原子力発電所の事故を巡る焦点の一つは、政府が危機をどう認識していたか、だ。キーワードは原発事故として最悪の事態を意味する「メルトダウン」。原子炉の中にある燃料が溶け落ちて、放射性物質の放出につながる極めて重大な事態だ。メルトダウンの可能性があるとないとでは、政府・東電の対応が大きく変わったはずだ。

菅氏はインタビューで当初からメルトダウンを懸念していたと主張する。ところが、菅氏によれば、原子力安全・保安院と東電からの報告は違っていた。

「(炉心の)3分の2までは水がある。(メルトダウンではなく)燃料棒の損傷だ」

実際の経緯はどうか。3月12日午後2時15分、原子力安全・保安院の中村幸一郎審議官は記者会見で1号機について測定データなどから「炉心溶融でしか考えられないことが起きている」と語った。保安院と菅氏の認識に大きな違いはない。問題は、その後だ。

午後9時半の記者会見に現れたのは中村氏でなく、野口哲男首席統括安全審査官ら。発言者は何度も入れ替わり炉心溶融に関し「どの程度起きているのか現時点で承知していない」などとあいまいな回答に終始した。

その後、13日未明に会見場に登場したのは根井寿規審議官。「幹部からの指示で交代した」とだけ交代理由を説明した。炉心溶融という言葉は使わず「燃料破損の可能性は否定できない」という表現を使い始める。13日夕からは西山英彦審議官に交代。同日夜には「(燃料の)外側の被覆材の損傷というのが適切な表現だ」と一段と後退した言い回しになった。

2カ月後。実態は炉心溶融が真実で、それ以上にひどいと分かる。東電は5月12日になって1号機の炉心溶融を認め、同15日には地震から16時間後には燃料の大半が溶け落ちたとの解析結果を発表した。

そもそも水位計そのものが機能していなかった事実が後に判明した。炉心溶融がかなり早い段階で起き、圧力容器の底が抜けていたのなら、壊れた水位計の示す値の上がり下がりの東電発表に一喜一憂していたこと自体、意味がなかった。

ただ、だからといって「炉心溶融を懸念していた首相官邸、目をそらしていた保安院・東電」という単純な構図だったかどうかは、分からない。経産省内には、中村氏は当初の「溶融断言」が問題化し、更迭されたとの見方がある。保安院の発表が後退していったのは、パニックを恐れた首相官邸の指示だったという指摘もある。

3月14日。枝野幸男官房長官は記者会見で炉心溶融に関し「起きている可能性は高いという状況は3つ(1、2、3号機)とも一緒だ」と指摘している。それなら、菅政権が当初から炉心溶融の可能性を前提にした事故対応、避難指示を明言しなかったのはなぜか。菅氏は言う。

「霞が関は自分の都合のいいデータしか出さない。結果として十分な情報発信ができなかった」

それを官僚の責任と総括していいのかどうかはなお検証を要する。

■放射線量の計測「重大事故の想定なかった」

「少なくとも私が知る限りの範囲ではデータを隠すようなことはさせていない。(風向きや地形から放射性物質の広がりを予測する)SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)について議論になるが、当時の原発関係者は放出源データが入手できず、当初想定していた活用ができないという判断だった」

3月16日夜。福島県の災害対策本部原子力班から奇妙な発表があった。「本日、最も高い福島市でも最高値は1時間当たり21.20マイクロシーベルト。胃のX線集団検診1回当たりの放射線量が600マイクロシーベルト。数値は通常より高いが健康に直接影響を与えるレベルではない。福島市の数値が高い原因は調査中」

1日当たりでは約500マイクロシーベルト。1日1枚X線写真を撮る勘定で、年間なら約185ミリシーベルトと莫大だ。健康に影響を与えないと言い切るのは問題で、1時間当たりと1日当たりの混同とさえ思える。

SPEEDIは地震後、運用機関が第1原発を解析し、間もなく予測が出ていた。県は受けとったデータを古いとして公表を見送った。だがデータはその後の実際の放射性物質の広がりとほぼ一致。直ちに公表すれば雨の影響の推測など避難に役立った。「福島市が高い理由を調査中」という発表もしなかったはずだ。

県ではなく政府としての早期公表はできなかったのか。

首都圏も含めた各地の住民が求めた詳細な放射線量調査も大幅に遅れた。

「放射線計測も1県1カ所のマクロのモニタリングと、その後の1メートルの高さでの学校ごとの計測は次元が違う。重大な事故の想定がなかったのが原因だ」

疑問は残る。SPEEDIの存在を知っていたなら直ちに官邸が公表を指示するぐらいはできたはずだ。そうすれば日本人が外国の予測機関のデータを必死に探すようなおかしな現象は減り、海外から隠蔽体質を指弾される場面も少なくなっただろう。

■原発再稼働問題「目の届かないところで既成事実化」

「経産省は保安院のチェックだけで(九州電力玄海原発を)再稼働させようとした。原子力安全委に聞いたか問うと『法律上、必要ない』と。確かにそうなっていたが、保安院では十分に対応できない。私は国民が納得するルールを作れと関係閣僚に言った。最低限、安全委が関与することと、IAEAのストレステストを参考に案を作らせた。経産省は私の目の届かないところで既成事実を積み重ねようとしていた」

一方、ストレステストが玄海原発の再稼働問題の直前に出てきたため海江田氏は菅氏に不信を抱く。「一刻も早く(経産相を)やめたかった」との回想からは、菅内閣が機能不全に陥っていた事実が浮かび上がる。

これに先立つ、政府による中部電力浜岡原発の運転停止要請は5月6日。決断に導いたのは4月末の中央防災会議だった。「M8の東海地震が30年以内に起きる確率は87%」との報告は大きい。海江田氏は5月5日に浜岡を視察し、翌日、菅氏と話す。菅氏によると、視察前に海江田氏と話を詰めていない。

以上、インタビューを交えた記事なのだが、なんともスタンスというか立ち位置が不明な日本経済新聞ではある。

続いて、「菅前首相インタビュー要旨」。

菅前首相インタビューの要旨

2011/9/21 3:30

――原発事故の発生直後の受け止めは。

「重大な事故が起きたという猛烈な危機感があった。冷却できないということは炉心溶融(メルトダウン)だ。冷却装置を動かすため電源が必要となり、いかに電源車を持ち込むかで動いたが、結果は失敗。そこでベント(排気)の話になったがなかなか動かなかった」

――保安院、東電の見解は曖昧な形に戻っていった。

「3分の2までは水があるという。頭は水から出ているため、燃料棒の損傷だというのが当時の公式見解だった。保安院でどのような情報管理がなされたのかはよく承知していないが、結果として十分な情報発信ができなかったことは事実だ」

「想定外という言葉は本来は許されないと思う。最大の原因は、本来考えておくべきことを考えないこと。その意味で原発事故は人災だ。霞が関は自分の都合に合うデータしか出さない傾向がある。電力需給の見通しもそうだ。だから何度もデータの出し直しを指示した」

――菅氏が再臨界に触れたため海水注入が止まり、メルトダウンを誘発したとの指摘があったが、実際には現場判断で注入が続いたという。

「淡水がなくなれば海水、は全員一致だった。再臨界の可能性は大丈夫か、と聞いたが、班目委員長の答えは『可能性はゼロではない』。ホウ素を入れるかの問題だから、それも含め検討してくれ、と言った。官邸か東電本店の東電関係者から現場の吉田所長に『海水を入れることにまだ了解は出ていない』と伝言ゲームで伝わった。おもんぱかる形で」

――2号機は4時間早く水を入れれば爆発を避けられたともされる。

「私や官邸のメンバーが海水注入を止めたことは一切ない。(事故発生の)だいぶ後に『(原発近くの)ダムの水を使えばどうか。早めに海水を淡水に戻したほうがいい』と勝俣会長に伝え『それはやります』と言っていた」

――事故後、最悪の事態を想定したか。

「原発事故の直後に最悪のシミュレーションを考えてくれと指示した。退避区域が200~300キロメートル単位にまで広がるのが最悪の想定だった。10万~20万人の避難も大変なのに、対象が1000万人、2000万人となれば国が機能しなくなる。少なくとも国会は移転しないといけない。国会の周りも人っ子一人いなくなる。首相官邸から全部、西の方に行くことになる」

――4号機の燃料プールは米国が危険を指摘していた。

「4号機プールは大きな問題だった。中身は2種類あった。プールの水が空になってメルトダウンに至らないか。それから余震でプールが崩壊しないか、だ。そこで早い段階で補強工事を指示した」

――脱原発依存に考え方が傾く節目が浜岡問題だったのか。

「日本そのものが機能しなくなるような原発事故のリスクは背負えない。原発に依存しない社会をつくるとの結論になった。ずっと考えていた」

――思いつきとの批判も。

「思いつかなければ発明なんてできない。発想が違う。思いつくのは非常に重要だ」

――ストレステストが急に浮上したのはなぜか。

「経産省は保安院のチェックだけで(九州電力玄海原発を)再稼働させようとした。原子力安全委に聞いたか問うと『法律上、必要ない』と。確かにそうなっていたが、保安院では十分に対応できない。私は国民が納得するルールを作れと関係閣僚に言った。最低限、安全委が関与することと、IAEAのストレステストを参考に案を作らせた。経産省は私の目の届かないところで既成事実を積み重ねようとしていた」

――津波ではなく地震で福島第1原発が損傷した可能性は。

「その辺は事故調査・検証委員会がきちんと調べないと分からない」

――環境省に原子力安全庁が発足する予定だ。

「事故対応が十分でなかったのは反省点だ。米原子力規制委員会(NRC)など米国のシステムを含めて実効力があるものにすべきだ」

――今後のエネルギー行政に絡み福島県へのメッセージは。

「私は福島県にとってチャンスだと思う。震災、津波、原発事故とマイナスばかりだったが、思い切って自然エネルギーの研究所を集めて、自然エネルギーによる産業をつくる。そういう方向になるよう私なりにできることをしたい」

――退任間際に、原発周辺地域は長期間居住が困難になるとの見通しを明らかにした。

「大変厳しく申し訳ない話だが、長期にわたり帰れない地域があると被災者に伝えておくのが震災発生時の首相の責任だ。中間貯蔵施設がないと除染も進まない。やはり福島で出たものは福島の中で中間貯蔵をお願いせざるを得ない。それも私が在任中に言うのが一つの責任だ」

――野田佳彦首相への引き継ぎは。

「人事は一切言わなかったが、結果的にはよく分かって対応してくれた。細野豪志原発事故担当相と平野達男復興担当相は留任だった。政策に関する助言は野田首相にしていない」

 

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