野口体操入門 / 羽鳥操

2010年3月13日に仙台に震度4の地震、今日14日に震度5の地震があった。昨日の地震で自宅の本棚から転げ落ちた書籍数冊。その中にこの本があった。偶然には意味がある。そう思いながらこの本を手に取り、ページをめくったら、三島由紀夫に関する文章が目に付いた。この本を購入したときには、全然思ってもいない文章である。3月12日、地震の前日に私はエルパーク仙台のスタジオでヨガを研修していた(野口は昭和30年代、周りのひんしゅくをかいながらヨガ教室に通ったらしい。いいものは誰がなんと言おうといい。権威は自分が感じたことにあって、他人が決めた権威に従うことはない、と言い放って続けていたという。p74)。また、先立つこと数日前に三島由紀夫に言及している瀬戸内寂聴と美輪明宏の対談集(ぴんぽんぱん ふたり話)を読み終えたばかりであった。

野口体操入門第一章第二節身体感覚を甦らせよう、p14から引用する。

・・・三島由紀夫のエッセー「実感的スポーツ論」を軸に、現代人にとってどのようなからだとのつきあい方がよいのか、一つの方向を提案してみたい。

JR中央線お茶の水駅を聖橋方面に降りて、線路沿いに、淡路坂はある。。急勾配の坂である。この坂を下りきる手前に、「日本健康スポーツ連盟」の本部はある。

私は二年前の秋、初めてこの連盟の理事長である玉利斉氏を訪ねた。そのとき、玉利氏が最初に話されたことに、私はひどく驚かされた。

「三島さんは、スポーツ共和国を夢見ていたのです」と言いながら、玉利氏は用意してあったコピーを手渡してくれた。三島由紀夫の「実感的スポーツ論」であった。このエッセーは「荒野より」という中公文庫に収められていた。

このようなエッセーを三島が残していたとは、三島は戦争と絡んで肥大した身体コンプレックスを持っていた。現在、三島が生きているとすれば、喜寿を迎えたことになる。三島は小学校入学から敗戦を迎える20歳まで、戦争の影につきまとわれていた。三島に限らず、この時代に、からだが貧弱で運動能力がおとったものがどれほどに惨めな学校生活を送っていたかは、私が改めて書くまでもない。

ところが、三島を溺愛した祖母夏子の英才プログラムには、身体への配慮は微塵もなかった。夏子の身体不在とも思える教育が、三島文学を生む源であったことだけは確かだ。三島は早熟な才能を文学に花開かせて、ひ弱な躯で走り続け、息切れてしまった30代に肉体を鍛える道に邁進した。(ちょうど今、私はNHK教育テレビで吉本隆明の講演を聴きながら引用文をタイプしている。吉本隆明は講演を終戦後の話から始めている。世界認識の方法として古典経済学アダムスミスからマルクスまでを勉強したという。そして経済学以外の古典。言語の本質は沈黙。芸術言語論。)ボディービルで鍛えたからだが欲するままに、ボクシング、そして、剣道へと道を進んだ。そこで三島は、運動音痴のおちこぼれや、遮二無二働き続ける企業戦士の健康を慮って、社会スポーツの必要性を説いていくのである。

「例えば私は空想するのだが、町のすみずみに体育館があり、誰でも自由にブラリと入れ、僅少の会費で会員になれる。夜も十時まで開いており、あらゆる施設が完備し、好きなスポーツが気楽に楽しめる。コーチが、会員の運動経験の多少に応じて懇切に指導し、初心者同士を組み合わせて、お互いの引っ込み思案を取り除く、そこでは、選ばれた人たちだけが美技を見せるだけではなく、どんな初心者の拙技にも等分の機会が与えられる。・・・こういうスポーツ共和国の構想は、社会主義国でなければ実現できない、というものではあるまい」(実感的スポーツ論)

肉体改造において予想以上の成果を実感した三島の告白ともいえるエッセーはこう締めくくられている。私は密かに思っている。このエッセーは、作家・三島由紀夫の仮面を脱いで、平岡公威の肉声をつづったものではないかと。

それはさておき、実は、三島の肉体改造の出発点となったボディービルを指南したのが、玉利氏である。

三島に出会う前の玉利氏は、早稲田大学柔道部に属していた。体重が少なく、力が出せなかった玉利氏は、何かいい方法はないかと模索していたのだ。のそとき知ったのがアメリカでおこなわれていたウエイトトレーニングであった。実際にとれをおこなってみて、短期間に効果が表れる「即効性」に驚かされたという。

玉利氏はさっそく、早稲田にバーベルクラブを発足させた。噂を聞きつけた学生たちが、百名近くも集まってきたのだという。そのことがきっかけとなって、玉利氏は日本にボディービルを定着させるために奔走する人生を始めてしまった。そこに表れたのが、三島由紀夫であった。

1955(昭和30)年夏、三島由紀夫30歳、玉利斉22歳。玉利氏は三島がボディービルを始めるに当たって、三つの条件をまず提示したという。第一は、本気で続けること。第二は、がむしゃらなやり方はしないこと。第三は、合理的な練習方法を身につけることであった。とくに第三番目の条件は、剣道家を父に持つ玉利氏の見識が言わしめたことだ。一流になれないものまで十把一絡げにして、精神主義で乗り切らせようとする方法は間違っていることをつげながら、暗に文学におけると同等の野心を持たないようにほのめかせておく気持ちが、玉利氏にははたらいたようだ。

話は前後するが、なぜ私が玉利氏を訪ねたのか。それは、次のような経緯による。

私の恩師である野口体操創始者・野口三千三(1914-98)東京芸術大学名誉教授が、私の手元に残した資料を整理しているうちに、三島自決当時の新聞・週刊誌・月刊誌等々を見つけた。私は、さっそく資料に目を通し、野口自筆ノートの三島関連の記述を調べ始めた。事件当時のページには、三島以外に玉利生の名前が記されていた。そこで私は、玉利氏を訪ねたのだった。玉利氏は野口との出会いの経緯を次のように語ったくれた。

1954(昭和29)年、ある雑誌に載った「世界のボディービルダー」という特集に当事、゛芸大の助教授だつた野口がつけたコメントに玉利氏は感銘を受けたという。すぐさま上野の芸大の野口を訪ねた。野口地はそのときすでに野口流の筋肉トレーニング方法を持っていた。

野口自身は、師範学校在学中に陸上部と体操部に所属し、昭和10年代には、選手として活躍していた経歴を持っていた。野口は玉利氏の申し出を即座に快諾した。野口、40歳の時であった。

さて玉利とは、1955(昭和30)年12月に、日本ボディービル協会を発足させた。そして、翌年正月過ぎに、神田共立講堂において第一回「ミスターニッポンコンテスト」を開いた。

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