熟年と性、愛は時空を超えるか?その2

「工藤美代子著、炎情―熟年離婚と性」からの続き、その2です。前回は古代エジプトのファラオと巫女の愛について書かせていただきましたが、今回は日本、亡き恋人と逢瀬するためついには時空を超えるようになった小森さんについて。ご紹介するのは臨死体験(上)-立花隆です。

・・・小森さんがこういう能力を開発するようになったのは、二十七、八歳のころ、金縛り状態の中で、死んだ恋人の幽霊に会うという体験をしたことがきっかけだという。それは幽霊というより、生きた人間そのままだった。体温もあり、呼吸をしているのも感じた。金縛り状態の中でその人をじっと抱いていた。その人の髪が自分の頬にふれていたという。

この体験をしたあと、何とかしてもう一度その恋人に出会いたいと思った。それは幻覚だろうとは思ったが、幻覚でもよいから、もう一度そのときと同じように、生きた彼女そのままを自分の腕に抱く感覚を得たいと思ったのである。どうすればその夜と同じ体験ができるかわからなかったので、とにかくいろんなことを試してみた。多分、金縛り状態になるのがカギだろうと思ったが、それも求めて得られるものではなかった。そのうち呼吸を止めることを思いついた。体を一切動かさず、無の境地になって、呼吸を意識的に止めることを繰り返ず。苦しくなると少し息を吸うが、吐くのはとことん止めるようにする。そのうちに、目の前に紫色の棚があらわれてそれが開くのが見えてくる。体がしびれ、稲妻のような光がピカピカしてくる。その光に驚いて手を握りしめたり、体を動かしたりすると、意識が覚めてしまって、それ以上はいけない。

三十四、五歳のごろ、結核で一年ほど入院していた。暇だったので、その練習を毎晩やっているうちに、どんどん上達し、ある日、ついに屋根を突き抜けてどんどん天に昇っていく感覚を得るようになった。そこまでは努力すればいつでもいけるようになったが、その先の心臓の拍動が止まって、絶対的に澄みきった世界に足を踏みいれるというところまでいったのは、一度きりだという。

六十五歳ころまでは、ときどきこの体験を試みていたが、何しろこれは死と紙一重のところまで行くことで、命の危険もあるので、最近はずっとやっていないという。

にわかには信じ難い話と思われるかもしれないが、私はごれはありうることだと思っている。実は、血中の二酸化炭素濃度が過剰になると、幻覚を見ることがあるごとは昔から知られている。先に、臨死体験の生理学的解釈の一つとして、脳の低酸素状態説があることを紹介したが、ごれとならんで、血中二酸化炭素濃度過剰説竜有力な解釈の一つとしてあるのである。小森さんのやった呼気をできるだけ止めるという努力をつづけれぱ、確実に血中の二酸化炭素濃度は上昇していく。そして、小森さんがいっていた、体のしびれや閃光を見るという現象も、・・・。P107-108

ここが言いたいのは、まさに「一念岩をも通す」ということです。死んでいった恋人に会いたいと思い続けてそれがかなったと言うことです。

好きな人の事を思い、その好きな人(たとえ死んでいる人でも)に会いたいと念ずる、もしくは抱きたいと念ずる。その一念が潜在意識(もしくは集合無意識)に働きかけ、方法を知り(理屈ではなく体で)出会いをかなえたわけです。結果、臨死体験とか死後の世界にいったということであり、手段であった臨死体験をするとか死後の世界に行くとかはどうでもいいことなのです。

上記に引用した文章の最後の段落は立花氏の解釈ですが、この部分は理屈であり、あまり問題ではありません。そういう意味でそのまま掲載してみましたが、問題は「血中二酸化炭素濃度過剰」云々ではなく、好きだということ、愛してるということ、会いたいと思うこと、そして抱きたいと思うことです。そうすれば、勃たなくても勃ち、濡れなくても濡れます。

逆に、勃たないとか濡れないときは、セックスする必要がないのです。自分の体を信じましょう。歳をとったから体が反応しないのではなく、歳をとったから体が反応しているのです。目と目を合わせただけで充分に感じてしまうカップルだって(多分)いることでしょう。大事なのは相手を思うことで、その思いに対する最適な解を体が教えてくれるという風に解釈できないものでしょうか。

ということで、以下に本論から若干はずれますが、興味のある方向けに小森さんの体外離脱についての箇所をご紹介。

・・・小森さんだけでなく、インドのヨガの行者の中にも、自分の意志の力で呼吸を止めその状態を持続できるとずる入々がいる。

小森さんによると、呼吸を止めるとともに、胃の動きも止まり、腸の蠕動も止まり、ただ心臓だけが動いているという状態になる。すると、まず「太陽の何倍もの白光」が見え、つづいて、体外離脱が起こる。自分の体が二つにわかれて、一方は上昇していく。

「天に昇って行く、天井も屋根も何の抵抗もなく抜けて上って行きます。春夏秋冬が一時に現れた下界が見えます。天女もいます」

という。

この現象を小森さんがどう解釈しているかというと、これは幻覚にちがいないという。なぜなら、そのとき登場してくるのが、天女だけでなく、

「時には映画女優が裸体で浮遊してきます(高峰秀子が出た)。だから幻覚と思います」

というのである。

小森さんは、ごういう不思議な能力を身につけながら、自分の能力をクールに見ている。

「私が何か宗教の勉強をしたとか、禅の修行をしたとかしてごういう体験をしたというなら立派なものなんでしょうが、私の場舎は、安直に呼吸を止めるという肉体的練習だけで得たものですから偉そうなごとはいえません。ごれは何人でも、身体を清浄に保って練習すればでぎるものと思います。いろんな現象は、身体の機能がそうさせるものだと思います」

そういう立場から解釈すると、「太陽の何倍もの白光」を見るという経験も、「呼吸を止めて仮死状態に入ったときに、瞳孔が散大ずるので無限光を感じるのだと理解しています」という。

ごの段階で、他にもいろんなことが起きる。人の声が聞こえてきたり、文字が浮かんだりしていろいろ教えられることがある。山よりも大きな人物が立っていて両手を広げているのを見たこともある。それとともに、「体悦」と小森さんが表現する肉体的快感が出てくる。それは、

「皮膚の表面ではなく、体の奥の方、筋肉か骨か骨髄かわからないが、ずっと奥の方からあふれてくる何とも表現しようのない気持ちのよさ、居ても立ってもおられぬほどのすごい気持ちのよさで、そのときちょっとでも体を動かすとズンと突きさされるようでとても耐えられないので、微動だにできません」

というほどの快感だという。この強烈な決感に耐えていると、次に、小森さんが「澄」と名づける段階に入る。それは「明澄としかいいようがない、何もかもが澄みきった世界」だという。

その段階に入るのには、呼吸停止だけでは十分でない。心臓が止まる必要があるという。

「心臓がバタッと止まります。その瞬間、間髪をいれず澄んだ中に入ります。そこは無で、ただ澄んでいます」

という。そこにいたると、自分の体から光があふれ、それが矢のように発していく。そのとき、自分の望みがすべてかなえられたような気持ちになり、宗教でいう、「大悟を得た」という心境になる。

「神も仏も友達のような気になります。神や仏と一体となり、白分がその→部になってしまったような気です」

という。小森さんの解釈では、臨死体験もごれと同じもので、昔の偉い宗教家が苦しい修行の末に得た悟りというのもこの境地だろうという。p105-106

そもそも「エクスタシー(ecstasy)」そのものが、体脱を意味するもので、セックスとあの世とは密接な関係があるものらしい。

というところで、やはり最後はエクスタシー賛歌ともいうべき「夜明けのスキャット」で締めくくってみたい。

 

愛し合う その時に この世は 止まるの 

時のない  世界に 二人は行くのよ  

夜は流れる 星も消えない

愛の歌 響くだけ                     

愛し合う二人の時計は止まるのよ

時計は止まるの  

 

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