官邸前反原発デモ 日本経済新聞デビューか。

本日、官邸前反原発デモが日本経済新聞に掲載されました。社会面ではなく、「日曜日に考える」というコーナーというのが、日本経済新聞ですね。内容を下記にご紹介。

日曜に考える

中外時評

官邸前デモが映すもの

「合唱」の高揚と危うさと

論説副委員長 大島三緒

「参加者のみなさーん。足元に水たまりがあります。気をつけてください」 「まだたくさんの人が続いています。スムーズな行動をお願いしまーす」

国会議事堂の前庭から首相官邸周辺にあふれる入波に、ずいぷん丁寧な呼びかけが響く。主催者側の誘導かと思ったら、ハンドマイクを握っているのは制服の警察官だった。

毎週金曜日の夜、官邸前を中心に永田町から霞が関一帯を埋める、原発再稼働反対デモの一場面である。市民団体がこの春から始めた行動が徐々に膨れ上がり、最近では警視庁調べでも、2万入規模に達している。

ただし、デモといっても行進もせず「再稼働ハンタイ」とひたすら唱えるだけだ。会社帰りに見物がてら来た入もいれば、ベビーカーを押す若い夫婦もいる。ツイッターやフェイスブッ、クで情報を知った人たちがどこからか集まり、午後8時を期してわらわらと散っていく。

こういう具合だから警察も従来のデモと違ってコワモテで臨むむわけにいかず、花火大会の警備のようになるわけだ。往年のデモなら荒れる隊列の学生などを片っ端からゴボウ抜きして検挙し、騒然となった。

3・11後の時代に突如あらわれた、どこか祝祭のようなこの現象はいったい何か。そして、どこへ向かうのか。

特徴的なのは、労働組合などの組織的動員による参加者が少ないことだ。むしろ、まったくの個入でやって来る若者も多いから、昔ながらのデモのスタイルはとりようもない。

もちろん運動の中心には、プロに近い活動家がいる。かつて闘士だった団塊の世代が、こういう機会を待ってましたとばかり駆けつけてもいるだろう。

とはいえ、それだけでは数万入規模にはとても広がらない。

行動に対する評価は別にしても、たくさんの普通の入々が自発的に参加しているという事実は直視しておくべきだ。

思えば、時代を画する出来事である。戦後日本の大衆運動は1970年代に学生運動が過激化するにつれて下火になった。社会の総中流化とも相まって、デモや集会は普通の人々とは無縁の存在になっていたのだ。

ちょうど40年前の「あさま山荘事件」が、その大きな節目になったのではないか-。今年2月のこのコラムではそんな見立てを述べたのだが、どうやら世の中の流れはすごし、変わろうとしているらしい。

背景に「アラブの春」や米国の反格差デモを後押ししたソーシャルメディアの力があるのは明らかだ。ツイッターやフェイ一スブックが大規模な街頭行動を支え、日本人は「あさま山荘」のトラウマを超えようとしているのかもしれない。

もっとも、これだけの市民が「官邸前」に向かうのはテーマが消費税でも年金でもなく原発問題だからこそ、だろう。

3・11から1年余を経ても、原子力災害というものがもたらした極限的に罪深い光景は一向に人々の視界から消えない。そもそも、ようやぐ出そろった国会や政府の事故調査委員会報告も事故の根本的な原因は解明されていないのだ。

一方で、電力不足の懸念から原発の再稼働は進んでいく。野田佳彦首相は大飯の再稼働にあたり「原発なしでは日本社会は立ち行かない」と語った。しかしあの堂々たる宣言ぷりに、かえって違和感を抱いた人も世間には多かったに違いない。

膨らむ街頭行動に対して、脱原発を唱えるばかりで無責任だという批判が出るのは当然である。しかしまた、へんに冷笑的になったり不平を胸にため込んこんだりするより、オープンに声をしたほうが社会のあり方としては健全だともいえる。

問題はこの先だ。運動がたんに人々の欲求不満をはらすカタルシスにとどまるのか、新しい社会像を示す提案などに展開するのか、あるいは政治の側がなにか対応を見いだせるのか。原発をめぐる二項対立が深まるばかりでは不幸である。

「もはや主役はいない。いるのは合唱隊(コーロ)のみである」。哲学者オルテガは「大衆の反逆」で、社会という舞台の背景にいた群衆が前面に進み出てくる様子をこう言いあらわした(神吉敬三訳)。それは可能性も危険性も秘めているというのがオルテガの分析だ。

3・11が生んだコーロの合唱はどんな歌を歌っているか。好悪を超えて、やはり耳を澄まさなければならない。

オルテガ「大衆の反逆」は、アマゾンでは次のように紹介している。

1930年刊行の大衆社会論の嚆矢。20世紀は、「何世紀にもわたる不断の発展の末に現われたものでありながら、一つの出発点、一つの夜明け、一つの発端、一つの揺籃期であるかのように見える時代」、過去の模範や規範から断絶した時代。こうして、「生の増大」と「時代の高さ」のなかから『大衆』が誕生する。諸権利を主張するばかりで、自らにたのむところ少なく、しかも凡庸たることの権利までも要求する大衆。オルテガはこの『大衆』に『真の貴族』を対置する。「生・理性」の哲学によってみちびかれた、予言と警世の書。

つまり、論説副委員長 大島三緒は、オルテガになぞらえ、目線が高いところからの文章、言い換えれば、デモを見下した文章を書いているわけである。中身は、まったくもって何もない、あえて言えば、目線の高さこそが、この文章のすべてである。稚拙な内容なので、何も言う気にもならないのだが、論説副委員長 大島三緒氏の目線の高さを示す言葉の端はしを列挙してみよう。

ただし、デモといっても行進もせず「再稼働ハンタイ」とひたすら唱えるだけだ。・・・午後8時を期してわらわらと散っていく。 /・・・花火大会の警備のよう・・・/・・・膨らむ街頭行動に対して、脱原発を唱えるばかりで無責任だという批判が出るのは当然・・・/3・11が生んだコーロの合唱はどんな歌を歌っているか。好悪を超えて、やはり耳を澄まさなければならない。

そもそも、官邸前反原発デモをまったくもって理解しようとしていない。まったくもって暗愚な『真の貴族』がいたもんだ。

因みに、日本経済新聞のこの記事のちょうど裏側には同じ「日曜に考える」と題して、「核燃料サイクルは必要か」という記事が丸々一ページ使われている。必要なのは「核燃料は必要か」という記事なのだが、そうではなく、核燃料は必要であることを前提として御用学者の対論仕立てとなっている。いつものことではありますが、開いた口がふさがりません。

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