鎮魂のアニメ映画「風立ちぬ」には、夏がよく似合う

ジブリアニメ「風立ちぬ」観てから数週間、なんともはや、予想外の作品を消化するのに時間が懸かっておりました。映画は淡泊で、肉食系ではなく、脂ぎってはなく、エロスがなく、毒もないのです。零戦は、兵器であることを辞め、天使の乗るもののような雰囲気がありました。この、手応えのなさといおうか、得体の知れない不気味さといおうか、そういった不思議さに戸惑い続けていたのです。

映画は、「夢」から始まります。そして、「夢のような」場面で終わります。もう生きてはいない、ジャンニ・カプローニも、菜穂子も「夢のような」場面に当たり前に出てきます。そして、映画のキャッチコピーは「生きねば。」なのです。

しばらくしてから、映画は心のさまを純化したものだと気づきました。美しい飛行機を作りたいという心のさま、好きな人と一緒にいたいという心のさま。それらをストンと心の奥まで降りていき純化したものをすくいとり、表現したのだと思ったのです。そのためにも、エロスや毒、兵器であることを削ぎ落とす必要がありました。そして得た究極の表現は、究極のエンターティメントにつながります。究極のエンターティメントとは、鎮魂でしょう。

「風立ちぬ」は鎮魂のアニメ映画なのです。今はいない映画の主人公への鎮魂、多くの亡くなった方々への鎮魂、そして映画の観客自身を含む生者への鎮魂です。このアニメ映画には、夏こそふさわしいと改めて感じ入った次第であります。

「死者」が中心となって当たり前の能について、幽 Vol.19 2013年 08月号 [雑誌]にて、能楽師、安田登のロング・インタビューが考えをまとめるにあたり非常に参考になりました。以下に全文をご紹介します。

安田登 ロング・インタビュー

能楽師として国内外で舞台をつとめるほか、能のワークショップやエクセサイズとしての能など、従来にないアプローチで能楽の魅力を広めている安田登さん。異彩を奴つその活動の中から見えてきた「地霊さきわう国」の芸能と怪談との関わりについて、経験に基づく独自の視点で解説していただいた。

招魂し鎮魂するという日本人古来の心性

-今回、「怪談専門誌」を標榜する本誌で能楽特集をするにあたリ、安田さんへのインタビューは欠かせないと考えていました。それと云いますのも、安田さんは伝統的な能楽はもちろん、夏目漱石の『夢十夜』から特に怪談的な色合いの濃い「第一夜」や「第三夜」の朗読劇に挑戦されるなど、怪談文芸への御理解が非常に深いようにお見受けするからです。
御著書では、能楽の持つ「鎮魂」という役割に触れられていますが、これは『幽』が提唱する「鎮魂の文学としての怪談に通じるものがあります。ですので、まずは安田さんが考えた舞台ておられる鎮魂の芸能について御意見を伺えますでしょうか。

安田 日本には歌舞伎や文楽など様々な古典演劇があり、それぞれに幽霊が登場する作品はたくさんあります。しかし、同じ幽霊でも役割には大きな違いがありまして、能に出てくる幽霊は入を怖がらせる気はまったくありません。歌舞伎の『東海道四谷怪談』などは、観客をいかに怖がらせるかを眼目において工夫をこらした舞台です。しかし、能の場合は発想が根本的に違い、まさに鎮魂を求める存在として霊たちが登場します。見るほうにしても、舞台上の霊に恐怖を感じるために来場するわけではありません。

-能の場合、シテと呼ばれる劇中のメインとなる存在が幽霊であることが多いですね。そして、そのシテが自分が死んだ時の状況やどのような思いを残したかというところを語る夢幻能と呼ばれる様式があります。これは能楽の大成者である世阿弥が確立したとされていますが。

安田 はい、そういわれています。簡単に能楽の歴史をおさらいしますと、中国から入ってきた雑芸である「散楽」を中心とした芸能が、やがて芸能を職分とする人々によって上演される「猿楽」と呼ばれるものとなり、観阿弥・世阿弥親子の時代になって現在の能楽に繋がる芸能として完成されたといわれています。ですが、これは文献上から導き出された歴史であって、私個入はちょっと違うのではないかと思っているのです。演者としての実感ですが、散楽の様子を描いた絵を見ると、どうもいまの能楽には結びつかないような気がするんですよ。

-たしかに滑稽な雑芸だったという猿楽と、高度な歌舞芸能である能楽の間には、ある種の断絶があるように感じられますね。

安田 ええ。文献主義的に能楽を考えると「鎮魂の芸能」としての能楽が見えてこない。先ほどおっしゃつた通り、夢幻能は死者の鎮魂を前面に出した芸能です。私は、能楽とは「死者は鎮魂するのが当然」という日本人の心性が芸能化したものだと思っています。

- 『万葉集』に数多くの挽歌が収められているように、日本では上古の昔よリ「鎮魂」が文学上の重要なテーマでした。

安田 そうですね。後に歌聖として讃えられた柿本人麻呂は和歌を詠むことで死者を鎮めました。その後も政争の敗残者たち・・・崇徳院や源義経など、非業の死を遂げた人々はあらゆる文学的な手段で鎮魂されています。

-市井の人々の鎮魂というのも日本人は熱心におこなってきましたよね。盆踊り然り、盆時期の怪談芝居然り。

安田 お盆は中国発祥の行事ですが、彼の国と日本のお盆では大きな違いがあります。あちらでは死者の国にいる霊に供物を手向けてその安寧を祈る。しかし、日本では現世に死者をお迎えし、そこで慰霊するのです。遠くにいる死者を思うのではなく、自分たちのいる所に招こうとする。これは日本の特徴と言ってよいでしょう。また、現代でも各地にが残っています。神様をお招きし、それを人間に憑依させて語らせるという神楽です。能楽とはそうした憑依神楽的なものや、招魂し鎮魂するという日本人古来の心性が、長い年月を経て芸能になったんじゃないかなと思っています。

生者の魂を鎮める力

安田 ただ、私は鎮魂というのはなにも死者だけのものではないとも思っているのです。

-ほう、それは興味深いですね。詳しくお話しいただけますか?

安田 シテの幽霊は最後に「ありがとう」とワキに礼を言って帰るときもあるし、勝手に鎮魂されて帰っていく場合もあります。そうして霊たちは救われていくわけですが、同時にワキも救われている。ワキとして舞台上に座っていると、それがわかるのです。幽霊を鎮魂しているつもりが、実は救われているのは旅人だというのは、すごくおもしろい。そして、さらには能をご覧になっていた観客の皆さんも実は鎮魂されている。

-観客が、ですか?

安田 はい。能の観客は途中から舞台を見ていないことが多い。目では舞台を追っているけれども、心では自分のことを考えているんですね。
鎮魂とは文字通り荒ぶる魂を鎮めるということです。たとえば源義経の場合、彼の功績により鎌倉時代という新しい時代が始まりました。それにもかかわらず、彼は殺されてしまいます。他の時代でもそうですが、新時代の始まりにもっとも貢献した人は必ず殺されてしまう。彼らは旧秩序の破壊には必要な人間だったれども、新秩序の維持には邪魔になる存在です。そういう入は殺されなけれぱいけない。だからこそ、彼らの鎮魂は大変重要なのです。そして、これと同じことが実は個入の内面でも起こっています。

私たちは誰しも自分が生きていくうえで、葬ってきた闇の自分というものがありますでしょう。人生の選択において切り棄ててきた選択肢。それは、もしかしたら存在したかもししれない[別の自分」です。この自分を放っておくと、ときどきすごい勢いで表に出てこようとする。夢に現れるぐらいならいいですが、時には自分の入生を根こそぎひっくり返そうとする力すら持ち始めるわけですよ。そういう存在を夢の俎上に載せて、一暴れしてもらい、再び闇の中に帰ってもらうのはとても重要です。昔の人々は、将門にしろ、菅公にしろ、彼らをただ彼岸に追いやるのではなく、また経を上げてただ成仏を願うのでもなく彼らの生き様、戦った姿、そしてその末の無念を再現して、ひとまず気を晴らしてもう一度あちらに戻ってもらうという作業を繰り返してきました。その過程で、観客は自分自身のなかの、彼らに等しい存在を慰撫し鎮めていく。それはつまり、普段は触れることのない「自分」というものに深く触れていくのに等しいことだと思います。

怪談というのもたぶん同じ効能があるのでしょう。恐怖というビビッドな感覚を得ることによって、普段の自分とは違う何かに触れていく。ただ、能楽はもっともっと奥の部分にまで到達しようとする。村上春樹はインタビューなどで「自分の地下二階に降りていく」という表現をしていますが、さらに先、地下三階まで降りていこうとするのが能楽です。それこそ『夢十夜一の第三夜のように百年前、千年前という生まれる前の記憶にまで降りていく。観客は、舞台を見ながら、無意識にそれを感じているのだと思います。能を見ながら寝てしまう人も多いのですが、その眠りはいつものそれとは違う、非常に深く気持ちのいい眠りだと感じるそうです。非日常の存在、あったかもしれなかった自分とのコミット。それが能の持つひとつの役割なのではないでしょうか。たぷん、人が「棄てなければいけない自分」を持っている限り、能楽という芸能は無くなることはないでしょう。

おくのほそ道は異界への道?

-なるほど。生者の魂もまた鎮められなければならないというのは素晴らしい着眼です。安田さんは長年引きこもりだった方々とおくのほそ道を歩くという活動をされていますが、それもやはり、「生者の鎮魂」に関わりがあるのでしょうか。

安田 はい。このワークショップを通して、おくのほそ道を歩いていろんな霊と出会うことで人は鎮魂されていく、というのを実感しています。
参加者は十代から四十代まで、なかには二十年ぐらい引きこもっていたという人もいる。そんな人でも、歩いているうちにどんどん変化していくのを、目の当たりにしてきました。ワークショップでは一日八時間ほど歩くのを一週間ぐらい続けるのですが、ある男性は旅の途中大雨に降られ、全身がずぶ濡れになるという経験をした数日後、日光の杉並木に到ったときに「旅の空我が人生に光射し」という句を詠みました。杉並木から日光がこぼれているのを見て、その句が浮かんできたというのです。引きこもっていた十数年には当然雨の日も曇りの日もありましたが、それは彼にとっては抽象的な雨であり曇りであった。傘をさして歩いていても、それは所詮天気予報の範囲内でしかなかった。でも、その旅で雨に降られてびしょびしょになりながら歩いていたら、天気と自分が一体化したというのですね。そうしたら、射す光までが彼にとって違う意味を持ち始めた。
また、おくのほそ道を歩くといろんな祠(ほこら)に出会うのですが、ある女性は、それぞれの祠にまつわる話を地元の人から聞いていくうちに、変化が起こったと言っていました。祠には歴史上の人物だけでなく、名も残らないながらも非業の死を遂げた人……たとえば火あぶりになった女の子の話や、行き倒れになった旅人など、いろんな人物の逸話が残されています。そうした話に触れ、いろいろと考えているうちに、はじめて自分の心が見えてきたそうです。つまり、自分で自分の鎮魂をしたというわけです。これってすごいごとだと思いませんか。

-それは『おくのほそ道』という作品があってこそのことなのでしょうか。

安田『おくのほそ道』は大変不思議な作品で、表向きは松尾芭蕉があこがれの存在だった西行が歩いた跡を追って東北を巡ったということになっていますが、書かれている東北は必ずしも本当の東北ではありません。私は「もうひとつの東北」という言い方をしているのですが、ある場所を歩いていると、いきなリスイッチを踏んでしまって、もうひとつの東北、パラレル・ワールドの東北に移行するんです。
たとえば、芭蕉が那須の黒羽に知人がいるので尋ねたというエピソード、この部分などは典型的なパラレル・ワールドの部分です。本文では、「那須の黒ばねと云ふ所に知る人あれば是より野越にかかりて直道をゆかむとす」となっているのですが、この直道というのがスイッチなんですよ。能楽で那須と言えば[遊行柳」という作品があります。西行が当地を訪れた際に詠んだという「道のべに清水流るゝ柳かげ しばしとてこそ立ちどまりつれ」という和歌をもとに室町時代後期の能楽師・観世信光が創作しました。
能では、この地にたどり着くときには広く楽な道を通ってはいけないというお約束があります。ところが、芭蕉は直道を通ってしまった。そうしたら、突然日が幕れて、雨が降ってくる。「遠くに村が見えたから、そこに行く」と本文には書いてあります。目視できるほどの村に行こうというのに、突然日が碁れるというのはおかしい。暮れるはずのない日が暮れてしまうのです。能ではこのパターンはよくあります。そして、そうなると必ず幽霊や精霊に出会う。芭蕉たちは仕方なく近在の農家に一泊し、翌朝あらためて出発しますが、どうも様子が前日と違う。しばらく行くと、野中に放し飼いの馬がいて、野道を歩き疲れていた芭蕉が草を刈っていたその馬の持ち主に「お願いだから馬を貸してくれ」と頼
み込みます。それに対し、男は快く貸してくれるのですが、そのときに「この野は縦横にわかれて、初々しき旅入の道踏みたがえむ」、つまりこの野の道はたくさん分かれ道があるので、土地に不案内な旅入だと迷うだろう、と言うのです。しかし、これは変です。昨日は「直道」だったわけですから。それが一夜明けたら道がぐちゃぐちゃになっている。しかも、借りた馬に乗っていると子どもがふたりついてきて、そのひとりの名を「かさね」というのですが、これもおかしい。というのも、かさねというのは都の辺りの名前で、那須にはあまりなかったはずなのです。さらにいえぱ、これは王朝風の名前、すなわち平安時代を彷狒させる名前です。つまり、江戸時代の那須を歩いていたはずがいつのまにか平安時代の京の辺りを彷徨っていたということになる。土地のある一点を通していくつもの時空が重なっていて、なにかの拍子にポンと移動してしまうのが、この『おくのほそ道』の世界なのです。

-なるほど、異界への扉があちらこちらにあるというわけですね。

安田 しかも、この現象は現代でも起こるんですよ。実は、ワークショップで那須を歩いた際、全グループがみごとに迷って、しかも全グループが里人に道を教えてもらっている。嘘みたいなのですが、みんな芭蕉と同じ体験をしたというわけです。あるグループは道を探しているとトラクターに乗ったおじいちゃんがやつて来て、何も聞いてもいないうちから、「この村は不思議な村で、六百五十年前の石碑があるんだよ」と教えてくれて、またそのままの山なかに入っていってしまったそうです。こうした不思議な体験ができるのは、すごいことだと思います。

地霊をきわう国を歩くということ

-『おくのほそ道』を含め、松尾芭蕉の足跡を巡る旅行というのは今でも人気ですが、能楽ゆかりの地を歩く謡蹟巡リもまた入気があります。謡蹟もまた異界への扉が開いている場所ということになるのでレようか。

安田 そうだと思います。「the 能.com」というインター.ネツト.サイトで「安田登の能を旅する」というエッセイの連載をしているのですが、この取材旅行の際には必ず不思議なことが起きるんですよ。

-不思議なことですか。どんなことがあったのか、ぜひ御披露ください。

安田 そうですね.兵庫県の一ノ谷に行ったときのことです。ご存知の通り、一ノ谷は源平合戦の折に大きな戦いがあった場所であり、ここで平敦盛をはじめとする多くの貴公子が源氏方に討たれました。能楽師として源平合戦にまつわる能を演じることもある私にしてみれぱ一度は訪れたい場所でして、ある仕事で神戸に行くことがあったついでに行ってみることにしました。

-一ノ谷の合戦ゆかりの能といえぱ、まず思い出されるのは世阿弥作の夢幻能『敦盛』ですね、未見の読者のために粗筋を説明しておきますと、一ノ谷の合戦でまだ十七歳だった平敦盛を討ってしまった源氏の武将・熊谷次郎直実は、我が子と同い年の少年を手に掛けたことがきっかけとなって厭世観が強まり、ついには法然上人のもとで出家して「蓮生」と名乗るようになります。そして、敦盛の菩提を弔うために一ノ谷を訪れたところ、笛を吹きながらやってくる草刈り男たちと出会う。そのうちの一人が実は敦盛の霊で、平家一門の儚い運命と自らの最期を語りながら舞うという内容ですね。

安田 その敦盛が討たれた須磨の海岸に行ってみたのです。敦盛は形勢不利と見て、沖の方に馬を走らせます。平家一門は馬を泳がせる技を心得ている人たちでした。しかし、源氏の武将はそれができない。だから、海に逃げるのが一番だったわけです。そんなことを考えながら海岸に出ると、目の前で氷上バイクが走り始めて、ちょうど敦盛が行ったあたりで止まりました。それを見てたら、もし敦盛が直実の挑発を無視してそのまま行っていたら逃げ切るごとができたのだろうなと実感したのです。
その翌日、今度は一ノ谷の合戦の大勢を決した鵯越の逆落しの現場に行ってみました。確かに一見馬を走らせるのは絶対に無理であるように見えるけれども、鎌倉で山に慣れていた源氏の兵たちなら不可能ではない。山の源氏と海の平氏。そんなことに考えを巡らせながらTwitterに書き込みをしていると、アイフォンのうえに赤とんぼが留まったんですよ。珍しいこともあると思っていたら、今度は白い蝶が飛んできた。赤と白、つまり源氏と平氏、それぞれのシンボルカラーが飛んでくるというのも、偶然にしてはよく出来ているなと(笑)。
また、同じく源平合戦に取材した「八島」の舞台である四国の八島の合戦場に行ったときには不思議な方に出会いました。
-屋島というと、一ノ谷の合戦で大敗した平家が、里内裏を置いて本拠地とした場所でずね。那須与一が扇を射抜いた話など、有名なエピソードが残っている場所でもあります。

安田 一ノ谷から平家の軍勢を追ってきた源義経は、屋島で平氏の軍の脅威に晒され、窮地に陥ります。それを一命を賭して助けたのが腹心の佐藤継信です。彼の死は能のなかでも触れられます。
そこで、私は高松市の牟礼町にある継信のお墓を探して歩いたけれども、なかなか見つからない。仕方なく地元の男性に教えてもらったのですが、話が終わったあともなぜかそのおじさんが私のあとを付いてくるのです。そして、聞いてもいないのに「俺が後を付いてきたのば、違う墓も教えたかったからだ」と話し始めた(笑)。
その入の案内で継信の墓がある辺りを見ると、いろんな墓所がありました。すぐ上には四国八十八ヶ所を巡礼している途中で亡くなったお遍路さんたちの墓があり、そのすぐ近くには墓碑に星印が付いている軍入の墓がいっぱいあって、さらに下をみたら牛のお墓がある。なんでも四国では牛の貸し借りをする「借子牛」という習俗があったそうで、その墓は貸し先で死んだ牛のものだったそうです。戦場で死んだ佐藤継信、遠い戦地で死んだ軍入、そして貸し出された場所で死んだ牛。つまり、そのあたりには客死した存在の墓が集められていたのです。海がすごくよく見渡せる場所でした。はるかに海を渡ッて霊がやってきたり帰ったりする。そういうことを土地そのものが教えてくれました。おじさんはいつしかいなくなっていましたね。まるで、シテがいつのまにか姿を消しているように。こうした体験がほぼ毎回ある。本当に不思議です。

-文献に当たるだけでは経験できなかったことや、現地に行かなけも毎号「怪談巡礼団」と称して、様々な土地を巡っているのは、まさに今安田さんのおっしゃったような出来事を求めてのことです。

安田 実際に行ってみるのは本当に大切だと思います。さらに言うと、行ってみるだけではなく、白分の足で歩いてみて欲しいのです。歩きのスピードでないと見えてこないものがたくさんあります。

ーたしかに、昔の作家や民俗学者はみんな実によく歩いていますよね。歩くことで土地の霊と出会い、そこで天啓を得たという人も少なくありません。

安田 土地の霊というのはすごく大事です。というのも、日本ば珍しい国で、時代を区切るのに地名を使いますでしょう。奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代、そして江戸時代。すべて政権があった土地の名前です。そういう国はほかにあまりありません。そして、時代の名前に採用された土地は、いまだにその時代の空気を色濃く残している。奈良も、京都も、鎌倉も、その時代の名残がいまだに土地の売りになっているわけです。時代に渦巻いていたある種の思念が、土地に染み付いていつまでも残っている。歌枕などはまさにその象徴的なものだと思います。

-和歌に詠み遷まれる名所や旧跡のことですね。

安田 はい。それこそ柿本人麻呂の時代から、土地の記憶が歌枕という言葉に結晶して、それが歌に使われることで幾層にも積み重なって残っていく。圧縮されているといってもいいかもしれませんね。そして、そのレイヤーはすぺて透けて見えている。そして、通りかかった旅入が古人の魂と出会いたいと願って歌や句を読むと、それが解凍装置になって、固まっていた思いが溶け、亡霊が出てくる。それが能の物語なのだと私は思っています。そもそも歌枕の「枕」という言葉自体がもともとは「真蔵」、つまり真実の蔵であり、本来はそこに神霊を呼ぶものでした。神霊が宿 った真の蔵を頭に当てて巫女が眠る。すると巫女に神が乗り移って御託宣をした。つまり歌枕は様々な出来事や思い出を収めた蔵だというわけです。

-それが、歴史上重要な役割を果たした土地に歌枕が作られた理由というわけですね。

安田 もちろん土地の思い出というのは特別な場所だけでなく、どこでもあります。芭蕉に「夏草や兵ともが夢の跡」という有名な句がありますが、夢の跡で兵どもは誰かがそこに来て夢を覚まされることを望んでいる。先ほど、能は生者の鎖魂になると申しましたが、やはり一義的には鎮魂は死者のものです。そこは絶対に外せない。そうした視点を保ったま、私たちが呼び覚まされることを待っているのが日本という国なのではないかと思います。

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