治りませんように べてるの家のいま 斉藤道雄

治りませんように――べてるの家のいま読みました。感想はなかなか書けないですね。難しい。

北海道つながりで、たとえば北の国から。全般に重い。テーマも語りも眉間にしわを寄せたようなつくりです。正座してみるドラマとでもいいましょうか。茶化したりすると、睨み付けられたりしてね。だから私は見ていないです。家族が見てるのを、横目で見る程度です。途中で耐えられなくて、まともに見たことはありません。好き嫌いとかはないです。世の中には色々な人がいて、それぞれが自分の好きな人生を歩んでいる。好きで不幸な人生を選んで歩むひともいるのです。

この本の冒頭に幸せにならない道を選んだ人の話が置いてあります。

かつて、ハンガリー東部のユダヤ人村に暮らしていた六人の裕福な家族は、少年ひとりを残し全員が煙突の煙と消えていった。一九四五年、解放されたとき十五歳になっていた少年は、自分だけが消えた家族の証であり、自分だけが家族の過酷な運命を記憶すべく、この世に残された存在だったことを知る。
立ちのぼる煙の記憶のもとで、少年はひとりつぶやくのだった。
「お父さん、お母さん、みんな、心配しないでください」
煙になった家族に、そして生き残った自分に、少年は語りかけている。
「ぼくは幸福になったりしませんから。けっしてしあわせになることはありませんから」
ホロコーストを生きのびた少年は、自分だけは幸福になる、とはいわなかった。しあわせにならないといったのである。そうすることで、失われたものの記憶を自らの生につなぎとめたのだった。
しあわせにならない。
あなた方を忘れないために。あなた方の死を生きるために。そしてあなた方に対して開かれているために。
この思いが、やがて時を超え、ふたつの大陸を超えてゆく。
そして、もうひとりの若者のこごろにこだまする。
アウシュヴィッツもホロコーストも戦争も知らないもうひとりの若者は、「しあわせにならない」生き方を自らの生き方とし、過疎の町に根をおろすのであった。そこで時代を超え、状況を超えてあらわれる人間の苦悩をみつめながら、苦悩の先に、もうひとつの世界を見いだそうとしたのである。
この冒頭は好きになれません。好きになる人も沢山いるとは理解できますが。小説だったら、冒頭を読んで本棚に戻すところですが、幸いなことにこれはドキュメンタリですから、読み終えることができました。感情移入できない部分がかなりあったので、なんともいえませんが、気がついたことを書いてみましょう。

幻聴に”さん”をつけてよぶ習わしは、幻聴をていねいに扱い、できることなら仲よくしたいという思惑のもとに、べてるの家のメンバーが編みだした対処法だ。それがじつに効果的な場合があることから、浦河ではだれもが幻聴を幻聴さんとよぶようになった。幻聴をこんなふうによぶのは日本はおろか、世界でも例がない。

統合失調症の患者の六、七割にあらわれるという幻聴は、とても一筋縄ではいかないやっかいな相手だ。頭のなかに、現実にはありえない人の声や音が聞こえ、しかも多くは「死ね」とか「バカ」といった否定的なことばで人を傷つけ混乱させる。朝から晩まで一年三百六十五日こんなことをいわれていたら、ほんとうに頭がおかしくなってしまう。なかには幻聴の命令に従い、実際に二階の窓から飛び降りて骨折したり、他人のものを盗んだり壊したりすることもあるから、軽くみるわけにもいかない。

精神医学の世界ではこれまで、幻聴はまともに語るべき対象とはされてこなかった。とにかく忌むべきもの、なくすべきものであり、それを消すために患者には強い薬が大量に処方されるのが一般的だった。ところがそうすると患者はしばしば考えることも、ついには動くことすらもできなくなってしまう。そんな無理はやめて、幻聴がどうせなくならないのなら、いっそ仲よく暮らすことはできないかと考えたのがべてる流だった。

そして九〇年代、「死ねバカ」系の幻聴に、「幻聴さん、きょうはどうかおとなしくしてください」とていねいに対応したところ、「そうか、それじゃあ」と、おとなしくなる幻聴の例が次々に報告されたのである。これが、「幻聴さんも成長する」という、浦河の偉大な発見として広く世に伝えられることになった。もちろん、それで幻聴がなくなるわけではなく、せいぜいがおとなしくなる程度で、しかもそれがどのメンバーにも起こるわけではないのだが、それでもこれは当事者にとって瞠目すべき対処法だった。以来、べてるの家では幻聴に”さん”をつけ、死ねバカ系の原始的な幻聴にはていねいに対応し、洗練された幻聴に成長するよう育てていこうというメンバーのくふうが重ねられている。

もうひとつ、浦河弁で有名なのが”お客”さんだ。

お客さんというのは、頭のなかに浮かぶネガティブな思考全股のことである。たとえばミーティングに出ようとしたとき、「仲間はみんな、白分のことをきらっているのではないか」というネガティブな思いが頭に浮かび、尻ごみするようだったら、それは”お客さんがきた”、あるいは”お客さんが入った”という。きらわれているだけではなく、自分はダメな人間だ、他人が自分の悪口をいっているのではないかという疑念、なんでもない仲間のひとことが自分を非難しているのではないかという思いこみもまた”お客さん”である。幻聴と似ているが、幻聴が音やことばであるのに対し、お客さんは想念であるところがちがう。そしてまたこれがじつに便利な用語で、浦河の日常生活ではあいさつのように多用されている。

お客さんがなぜ便利なことばかというと、メンバーはそれで白分のいまの心理状態をリアルタイムで周囲に伝えることができるからだ。「いまお客さんだらけになってます」、「その話されると、お客さんくるんだよね」といいながら、白分のこころのなかを開示し、ほとんど裸の白分を伝えていく。それはべてるの家ではきわめて重要な作業で、そうすることで日常生活のなかで、またミーティングに出たとき、メンバーは人間関係の苦労や危うさを、これまでよりはるかに綿密に伝えることができるようになる。
幻聴にさんをつけて、幻聴さん。これは昔から言われている、憑依とか狐付き、神懸かりなどということにつながるのではないだろうかと思いますね。「幻聴をこんなふうによぶのは日本はおろか、世界でも例がない。」とのことですが、むしろ、昔はそんな風にいうのは当たり前だったのではないでしょうか。次の「お客さん」もそうです。水木しげるは、妖怪をそういった風に捉えているようです。絵にしていますが、実は目に見えるものではなく、感じ取る雰囲気のようなものだと言っています。表現方法の違いで、実は昔からそのように擬人化した言い方は、病理とか病気を捉えるには便利だったのではないでしょうか。
統合失調症とか、分裂症とか、病名がやたらとわかりにくくなっているからなのかもしれませんが、神懸かりとか、狐付き、神憑りとかではだめなのでしょうか。

精神病が消えていく―続・精神病は病気ではないでは、精神病は死者の霊が子供に働きかける現象だといっています。

こうした現象の発生は、早くて中学生、最も多いのが高校生・大学生といった年齢の頃で、どういうわけか幼児なのにこうした症状を示すということはまずほとんどありません。不思議なもので、両親がまだ若くて給料も稼ぎも少なく生活に困窮しているような時には、子供さんに何ごとも起きませんが、ところが両親が一人前以上に成功して経済的にも恵まれて来ますと、まるでそのタイミングを待っていたかのように、大事な息子や娘に異変が起きます。ミドル・ティーン前後というのがちょうどそんな時期なのでしょう。(p15)

ご子息や娘さんの精神病をきっかけとして、私の寺で目の開かれるような体験をなさり、ようやくご先祖のお一人お一人を心からしのぶという、そういう暮らしを開始することになった幾組ものご家族が、毎日毎日、私の寺において次々に「供養」をしていらっしゃいます。

私の寺で「供養」と簡単な名をつけておりますこの行事は、私の話を聞いたり「霊視」という不思議な体験をしたりした後に行き着く最も大切なものです。この「供養」をするために「霊視」もするのですし、また、いろいろお話を申し上げたりするのもみんなこの供養に早く到違していただきたいからやっていることなのです。つまリ,供養こそが私の寺の主眼でもあり目的でもあるわけで、ご縁のできたすべての方々にどうしてもしていただきたいし、していただかなくてはなりません。

と申しますのは、私のこの「供養」によって、浮かばれていない死者が自分の死を納得して確実に成佛して下さるからです。死者は子孫の肉体から意識を離し、白らの帰るべき所、すなわち浄土へと帰って行きます。

そして、二度と戻って来ません。

一方、憑依を解かれた肉体は、もとのその肉体の持ち主の魂だけで再び満たされ、精神病は確実に治癒に向かいます。

もっとも、治るといっても奇術のように一瞬にケロリと元通りになったりはしません。それほど死者の意識がしていることは生易しいものではないのです。

精神病の難しさの第一は、憑依している死者が決して単数ではないということにあります。大変な数です。つまり、一人や二人などというシンプルな憑依とは憑依が違います。従って、供養も一人や二人の死者の供養で簡単に済むことは絶対にありません。

このことについては後の章で詳しくお話できると思いますが、どんなに大変なことであっても、供養しないかぎり解決はありません。が、供養して行くしかこの世の人間にできることはありません。供養を重ねて行けば必ず結果をいただけるのです。(p20-21)

憑依とか神憑りという言葉を使えるようになれば、当然「供養」という方法もでてくるでしょう。要は表現方法だと思いますね。統合失調症ではなかなか「供養」には行けません。病名を腑に落ちる名前にすれば、腑に落ちる解決法が見つかるかもしれないと思います。

神経言語プログラミング―頭脳(あたま)をつかえば自分も変わるには次のような箇所があります。

心の中の声

これまで心理学の分野では、人間の行動を理解すぺくさまざまなモデルが考えられてきました。イドとかエゴ、あるいは、人格を形成する「親」、「子供」、「大人」といったものがそうですが、どうもうまくいかないようです。

人格を「親」、「子供」、「大人」に分けて解析しようとする試みは交流分析とよばれています。それによると各部分は互いに独立しており、互いに没交渉だということです。たとえば、私の中の「親」の部分はあなたの「親」としか話ができないわげです。どうもしっくりこないような気がします。少し見方を変えてみることにしましょう。

心の中に「厳しい親」の声が聞こえてあなたをしかりつけ、無理に何かをさせようとしているという経験をおもちの方はいませんか。こう聞かれると、だれでもそのような気になってくるのではありませんか。これに対する対策のひとつは、声の批判をすべて受け入れてしまうことです。最後には声の方が音を上げてしまいます。もうひとつの対策は、声の場所を変えてしまうことです。たとえば、声が足の裏から聞こえてくるようにすれば、印象はずい分変わってきます。

しかし、その内容はあなたの気にいらなくても、声が正しいことを言っている場合もあることを心に留めておかなくてはいけません。声を聞いて不愉快になるだけではなく、その内容に耳を傾けた方がよいかもしれません。このような批判的な声に悩まされている方がおられたら、その対策をお教えしましょう。

男「私はいつもそのような声に悩まされています。今もこうして発言していることに文句をつけています。」

私「それは結構。では、まずあなたに何をさせたいかを声にたずねてみてください。」

男「私に成功してもらいたいと言っています。よげいなことはするなと文句を言っています。」

私「その意見には、賛成ですね。あなたも成功したいと望んでいるのでしょう。」

男「もちろんです。」

私「では、あなたにとって役に立つような情報を声がもっているかどうか聞いてみてくてください。」

男「当然だと言っています。」

私「役に立つ憤報をもっているのであれば、より闇きやすく、より理解しやすいように、語りかける調子を変えてみるつもりはないかたずねてください。」

男「意図をはかりかねているようですが、やってみようと言っています。」

私「大変結構です。さて、あなたの方では、声に耳を傾けやすくするにはどうしたらよいかを考えてください。やさしい口調の方がよいですか。あなたの過去の行勤に対する文句よりは、これからやることについての細かいアドバイスの方がよくはありませんか。そのようなことを考えて、声に頼んでみてください。」

男「これは驚きました。声はもはや小言親爺ではありません。友好的な援軍です。耳を傾けるのが楽しいほどです。」

やさしい口調で

当然のことです。どなり散らし、文句をつける声にだれが耳をかしましょうか。子供をおもちの方は、お子さんに言うことを聞かせたい時にこのテクニックを使うとよいでしょう。

やさしく語りかけれは、子供は聞いてくれるものです。言っている内容にうなずくかどうかは別として、少なくとも耳は傾けるごとでしょう。この方法は、またいろいろな場面での話し合いにも非常に有効です。先ほどの例で言えば、声はその及ぼす影響について配慮が足りませんでした。目標は、本入を成功させることであったにもかかわらず、実際には彼を不愉快にしていただけだったのです。

神経言語プラグラミングはプラグマテックな精神医療とでもいえるでしょうか。なかなか楽しそうな語り口です。

さて、本のタイトル「治りませんように」は深い意味が含まれていて、それを誤解のないように伝えるには、この本一冊が必要だったのではないかと思います。この本の最終章は「しあわせにならない」。冒頭に紹介したハンガリー東部のユダヤ人の話と関係づけられています。それも深い意味があると思います。

「治りませんように」「しあわせにならない」人をみるのはしかし、苦痛だな。ドラマだったら、途中で席を立ってしまいますね間違いなく。ドラマははっぴいでなくちゃ。脚本家はリアリティのあるエンディングで幸せをつくらなければならないと思っています。深刻なのはノーサンキューです。

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