熟年と性、愛は時空を超えるか?

さて、「工藤美代子著、炎情―熟年離婚と性」からの続きです。ここで、参考図書として転生―古代エジプトから甦った女考古学者を紹介します。かつて巫女であったオンム・セティ(ドロシー・イーディ)は禁じられたセティ一世との愛が原因で処刑されたのだが、その愛は3000年以上も後に再び巡り会うことになる。

この本の著者、ジョナサン・コットはニューヨーク在住の作家・詩人。「ローリングストーン」誌の創刊以来の編集者。音楽家へのロング・インタビューや緻密な評伝を得意とし、『グレン・グルードとの対話』(邦訳・晶文社)、『シュトックハウゼン』、『ボブ・ディラン』などの編著書がある。現代の児童文学者たちに取材した『子どもの本の8人―夜明けの笛吹きたち―』(邦訳・晶文社)や小泉八雲の研究書『さまよう魂―ラフカディオ・ハーンの遍歴―』(邦訳・文藝春秋)などの作品もある。奇しくも工藤美代子女史とは、ラフカディオ・ハーンつながりということになります。転生―古代エジプトから甦った女考古学者では、転生などの誤解を招くような不可思議な話については、慎重に取材や記述をしているようだ。

3000年の恋は、今生においても結ばれるのですが、早速その記述部分を紹介しましょう。

しかし、ドロシーにとって避けられない最終目的であったアビドスへの「帰還」が遅れたいちばん大きな理由は、彼女の秘密の愛人、セティ一世との情熱的潅恋愛に関係していた。それはアストラル・トリップ[肉体を離れて自由に移動すること]や、物質化[霊あるいは実体の未知の働きにより物質が形成される作用]、それに超白然的な「幽霊の恋人」[目に見えない魂の伴侶]など、言語を超えた神秘的世界にかかわる話になる。

ドロシー・イーディーはけっして他人の家に泊まろうとしなかった。ドロシーの親友でさえ、その理由を知らなかった。あるドロシーの女友だちは回想している。あるとき、夕食がたいへん遅くなり、ドロシーの友人は家に帰るたがるドロシーをなんとか説得して泊まっていってもらった。真夜中、女友だらは客室の窓を間断なく叩く奇妙な音に気ついて、目を覚ました。悪い予感がして、彼女は起きあがった。

そっと客室に入ったとたん、彼女は恐怖と不安に襲われた。ドロシーがほとんど血の気を失って、死んだように横たわっていたからである。空気が必要だと考えた女友だちは窓を開けた。驚いたことに昏蹊状態にあったドロシーは、魔法から覚めたように甦った。翌朝、女友だちがこの出来事について話しだすと、ドロシーはようやくわけをうち明けた。自分が眠っているとき、アク[古代エジプト用語=アストラル体]がしばしば肉体を離れることがあり、窓が大きく開いていないと戻ってこられなくなるのだ、と。

私がエジプトにやってくると、王様はふたたび現れるようになった。ドロシー・イーディーは、あるとき友人のハニー・エル・ゼイニにに語った。ハニー・エル・ゼイニは、トロシーがファラオの恋人についての物語をすへて判ち明けた唯一の人物である。ー十四歳のときの初めての出会い以来、私はふたたび王様に会えるのをずっと待っていたわ。けれども、王様がおいでになったのは、私が結婚してからだった。王様に会うためにはエジブトに行かねはならないことは心の奥深くではわかっていた。けれども、一方では、たとえ私がインクランドだろうと、エジプトだろうと、どこにいようが、王様にとってそんな距離は無いに等しいことも知っていた。

王様は古代エジプトの道徳観に縛られていたのね。私が結婚していたときには、王様は私を眺めるだけだった。ふだん王様は物質的な姿では現れなかった。私は王様の存在を感じるだけだった。けれども、そうでないこともあった。私の母や義理の父、それに一度は私の息子が、王様の姿を目撃したことがある。・・・そのことが<評議会>の機嫌を大いに損ねたらしいわ。p76-77

何度もアストラル体の姿で王様を訪ねて、すてきな夜を過ごしたわ。大神官のメリイとその愚かな妻のこと.大神官ウェンネフェルのごと、それにセティの家来たちのことも覚えている。ラメセス[セティの息子で王位の継承者]がいたときもあった。まだ若かったラメセスは、馬の引き具をもてあそびながら、鼻歌を口ずさんでいた。元気がよくて、すてきな方だった。それにとてもハンサムだった。・・・その晩、王様がおっしゃったの。今後、人聞として物質化して、そなたのもとを訪れてもよいかと。王様は、自分の気持ちを察してもらいたかったのね。ラメセスは鷹のような目で見つめていたわ。私はいった。もちろんですとも、と。

私は王様に訊ねた。私が十四歳のとき、どうしてサフ[ミイラ]の姿で私のところに来る許可が下りたのですか、と。王様はこうお答えになった.『地上で最後に自分自身を見たときの姿になったときのみ、そなたを訪れることを許されたからだ』と。初めて出会ったとき、王様は五十代前半で、私は十代の少女ベントレシャイトだった。だから、ふたたび会うときも、まったく同じようにして再会したいとお望みになったの。けれども、王様は、ご自分が最後に見た自身のお姿がミイラだったことをすっかり忘れていた。王様は『サフの姿でそなたの前に現れたとき、そなたをたいそう脅えさせてしまった。そのことで.余は〈評議会〉から厳しく非難されたのだ』とおっしゃった。きっと、そのために王様は何年もの間、私に会うのを禁じられてしまったのだと思う。

いま、王様は、生きておられたときの姿で私のところにおいでになる。いつも五十代の前半の男性の姿で現れる。・・・でも、とても魅力的で、若く見えるの。王様が亡くなったのは、六十三歳のときだった。一方ラメセスは九十歳くらいまで生きたのに、二十二、三の若者の姿をしていた。不思議に思って、いちど王様に訊ねた。王様は、どの歳の姿で現れるかは、自分で選ぶことができるのだとおっしゃった。ただし、死んだ歳よりも老いた姿にはなれない……子供のときに死んだ者が、大人の姿で現れることはできないというわけね。王様は、ほとんどの者は自分が地上でもっとも幸せだった頃の姿を選ぶとおっしゃった。だからラメセスも、いつまでもカデシュの戦いのときの若い英雄の姿でいたかったのでしょうね。私は王様に訊ねた。どうして、即位したときの歳を選ばなかったのかと。

そのときの王様の答えを覚えている。『王になることは幸福ではなかった。それは辛い徒労にほかならなかった』陛下が選んだのは、ベントレシャイと知り合い、彼女を愛した年齢、つまり五十四歳だった。その短い数週間こそ、全人生の中でもっとも幸福な時期だったと、王様はおっしゃった。黄泉の国では、人生の中のどの年齢の姿で現れるかは完全に自由なのだ。また、黄泉の国での肉体は、完全に健康な状態にあるともいった。たとえ、地上の人生で事故や病気によって手足を失ったり、口が見えなかったり、あるいは傷を負ったり、からだが不白由になっていたとしても、アメンティではそのことで苦痛をもたらされることはない。

カイロに暮らした最初の二年間、私は結婚していたため、自由な身ではなかった。〈評議会〉は王様の罪を許していたけれど、それでもまだ〈物質化〉することは許さなかった。……つまり、私の了解なしには、物質的な姿で現れることはできなかったの。でもアメンティを訪れたとき、私は王様の望みを了解した。そうしなくては、私は王様を見ることも、触れることもできなかったのだから。王様の物質化には、私白身の同意が不可欠だった。物質化するには、私のセケム[霊的な力]が必要で肉体的なカも少し関係していた。それから会うたびに、王様の姿ははっきりとしてきたわ。逢瀬の時間が長くても短くても、彼が去ったあと、私はある種の肉体的な疲れを感じたものよ。くたびれていたり、気分が悪かったり、病気だったりしたときは、王様が行かれたあと、疲れはてて、すっかり消耗してしまうこともあった。だから、王様は地上を訪れる前に、私の了解を取り付けなくてはならなかったのだろうと思う。それはきっとアメンティの決まりなのね。生者の暮らしを妨げないよう、まず死者は白分たちが物質化した姿で現れることを了解してもらわなくてはならないのね。

あるとき、王様に訊いたことがある。どうやってご自分を物質化させる方法を知ったのですか、と王様は、自分は地上に生きていたときに、そのやり方を学んだのだとおっしゃった。初めて私のもとに物質化して姿を現されたときに、ふつうの男女のように関係が結べるかしらなんて訊く必要などなかった。……だって、彼はご白分の性的能力を実証したのだもの。けれども、子供ができる見込みはなかった。朝早く、そう、いつも夜明け前だった。王様が去ったあと、そのしるしはなにも残っていなかったから。王様はアメンティで私と結婚しようといった。それには及びませんわといったのだけど、王様は、いや必要なのだとおっしゃった。私のアストラル体を連れていくことや、そこでどのような形式で結婚するかについては、なにもいわれなかった。おそらく、王様は、私が死んで、結婚できるようになるまで待たなくてはならないのをご存じだったのでしょうね。p80-82

ドロシーとセテイ1世について、若干の捕捉をしてみる。

ドロシー・イーディは、幼少の頃よりかつてエジプトに住んでいたというようになる。彼女は巫女としてエジプトに住んでいたが、そのときのファラオ、セティ1世と禁じられた恋に落ち、若くして処刑される。それから3000年の時を経てイギリスに転生。同じく、最愛の恋人をうしなったセティ1世は死後の世界にて彼女を捜し求めつづけていた。ドロシーが14歳の時に、セティ1世はドロシー(エジプトでの名前はベントレシャイト)と出会うことになる(ミイラの姿をしていたために、ドロシーを驚かせてしまう)。

さて、ドロシーはエジプト人と結婚し、エジプトに渡り、一人の子供を得てから離婚、考古学者として名を馳せるようになる。セティ1世との愛は今生において成就できたようだ。この愛については、ドロシーには、有名な(秘密の)日記がある。そこでは、上記に関して次のように書かれている。

初めてセティ王とお話しするようになったときから、私は王様に、アビドスに暮らして、神殿で働きたいという生涯の希望について話してきた。王様は、私の願いにいつも賛成してくれた。ときには.この願いがかなわないのではないかと悲観的になっている私を励ましてくれた。そして、自分たちの運命を成就するためにも、アビドスに戻るべきなのだといってくださった.アビドスの神殿での仕事への派遣がついに決まって、考古局から知らせを受け取った数日後、王様はピラミッドのところで、私の前に姿を現された。アビドス行きが決まったごとを告げると、とても喜んでくださった。「心から嬉しく思う、愛しい入よ」と王様はおっしゃった.一晩中、王様は私といっしょにいて、絶妙な仕方で愛してくださった。お帰りになる前に、「明日の晩、神官をつかわすので余のもとに来るがよい。そなたに伝えなくてはならないことがあるのだよ、我が白い蓮の花よ」とおっしゃった。それが私たちが愛を交わした最後の晩だった.このうえなく甘美な時間だった.王様は私のそばに横たわり、何度も抱き合い、ロづけをした。しかし、これが最後だった。なぜなら、これからは私たちの間に、抜き身の剣のように神殿が立ちはだかることになるからだ。

次の日の晩、初めて会う神官が私のアストラル体を連れに来た。私は王様のお住まいに案内された。王様は独りでいらした。穏やかではあったが、厳粛な雰囲気があった。私を愛情をこめて抱擁すると、そばに座るようにとおっしゃった。長年の間、私はオシリスとイシスの祭りの目には、自宅の彫像の前でお香をたくごとを欠かさなかった。しかし、このとき王様は、私がアビドスに戻ったら、神殿のお祭りの日を守らなくてはならないとおっしゃった(むろん.そのつもりだった)。また、お香をたき、ワインかビールを供え.神秘劇の中で二人の女神たちが歌った「イシスとネフティスの悲歌』を暗誦しなくてはならないともいわれた。私が「けれども陛下、私は悲歌を思い出せません」というと、王様はおっしゃった。「悲歌なら文書として書かれているはずだ。残ってはいないのかね」「悲歌の書かれた本なら持っています。けれども、それは異邦人の言葉で書かれたものです」王様は、言葉は問題ではないとおっしゃった。「神々はいっさいをご存じでおられる.神々は心の内にあるものをお聴きになるからだ」私は王様の前で誓いを立てた。今後.ずっとこの約束を守ることを。

しばらく黙ってすわっていた。それから王様は私の両手を取って、おごそかだが、緊張をはらんだ声でおっしゃった。なにが起こったのかを理解しなくてはならないと。「運命の車輪が回転して、輪が完成したのだ。いまこのときから、そなたの地上での人生が終わるまで、そなたはふたたび神殿に属するものとなった。そなたはもはや余に触れるごとはできない.余だけではなく、いかなる男にも触れてはならない」私は泣き出した。そしてアビドス行きをやめるとまでいった。すると、王様は私をやさしく揺すって、「可愛い入、そなたはふたたび過ちを犯そうというのかな」とおっしゃった。

王様は、これは二人にとっての試練の時期なのだ、誘惑に打ち勝ってアビドスで残りの人生を送るならば、自分たちの罪は許され、私は永遠に陛下のものになる、とおっしゃった。またお会いできるのでしょうか、と私は訊ねた。王様は.かならず、そなたに会いにアビドスへ行くとおっしゃった。

「以前のように、実体のない霊魂の姿でおいでになるのでしょうか」と私は訊いた。すると王様は「愛する人よ、そうではない。余は生ける入間の姿で、そなたのもとに現れるであろう。そなたのロづけや抱擁を控えることなど、余にはできない」とおっしゃった。「それが誘惑なのでしょうか」私が訊ねると、王様はこうおっしゃった。「誘惑のないところに、試練はない.だが、愛する入よ、余が強くいられるよう助けてほしい。そして泣かないでほしい。余は、そなたを愛することをけっしてやめはしない」王様は服の袖ロで私の涙を拭ってくださった。私はいった。「どうして、陛下に触れてはならないのですか。アビドスに行くのは神殿の修復のためであって、巫女として行くわけではありません。それにご存じのとおり、私は処女ではありません」王様ほ、これは運命の導きであること、そして私が「悲歌」を暗誦すると誓ったではないかとおっしゃった。王様は私にロづけし、いい子だ、とおっしゃった。また王様は、そなたが今までピラミッドのそばで暮らしていた間、ともに幸福な年月を過ごせたことを感謝しているとおっしゃった。王様はすてきな言葉をロにされた。「そなたの愛は、余の心の傷を癒してぐれる薬のようだ」と。私はふたたび泣きだしそうになった。

しかし、そのときいつものように騒かしい音をたてて、ラメセスが到着した。お互いに挨拶を交わすと、セティはラメセスに事のてんまつを話した。ラメセスは、私たちを祝福してくれた。だが、私にはラメセスが少し心配しているように見えた。セティはラメセスに、何を案じているのかと声をかけると、微笑みながらいった。「怖れるな、我が息子よ。われわれはいまこそ、強くあらねばならないのだから」これに応えて、ラメセスは「神々のご加護のありますように!」といった。セティとラメセスは乾杯をしようといった。ラメセスが飲み物を運んできた。私はいつものように二人にワインを注いだ。ラメセスの励ましが、張りつめた緊張感を断ち切ってくれた。やがて行かねばならない時が来た.神官が私を連れに来た。セティはいつもの穏やかな表情だった。

私がアビトスへ向かったのは、それから数日後だった。 p88-91

転生―古代エジプトから甦った女考古学者は、なかなか幅広い内容であり、上記引用で、、書籍全体がきわものであるかのような誤解がないようお願いいたします。

さて、引用部分から解るのは、肉体を離れたセックス(?)もしくは肉体を超えたセックスともよべるものが存在しているらしいということだ。肉体がないからといって無味乾燥した男女関係というものではなく、むしろセックスを超えたセックスがあるのではないかとすら思えてくる。愛のために、肉体上の問題、勃たないとか、濡れないとかに拘泥しなくともいいのではないかということを提起したいのだが、いかがだろうか。

古代エジプトの十代の巫女ベンシャトーレとファラオ、セティ1世(当時は54歳)。二人の3000年以上もの時を超える壮大なロマンスに敬意を表して、最後に松任谷由実のリインカーネーションを置いておこう。

※Once upon a time 遥かな過去から/今日まであなたを求めて/REINCARNATION※

恋人達はときどき/不思議なミラーをのぞく

二人は知らない時代/どこかで一度めぐり逢っていたはず

静かな台風の目に/蝶々が運ばれるように

二人の愛は旅して/あるとき遠い国までたどり着く

(※くり返し)

恋人達はときどき/不思議なワープをくぐる

二人は気づかぬうちに/同じあやまちをくり返すかもしれない

生まれた川をめざして/魚が帰るように

二人の愛は旅して/ときには時の流れを逆のぼる

Once upon a time 時間にはぐれて/ 今日まで宇宙をさまよい/REINCARNATION

熱い腕の中で 今 DE JA VUを見てた/なつかしい景色へ さあつれてって

Far beyond time この次死んでも/いつしかあなたを見つける

Far beyond time この次死んでも/いつしかあなたを見つける/REINCARNATION

Once upon a time 遥かな過去から/今日まであなたを求めて/REINCARNATION

Far beyond time この次死んでも/いつしかあなたを見つける/REINCARNATION

地上最強の商人

地上最強の商人読みました。図書館で立ち読みしてたら面白そうなので借りたのです。アラビア商人の成功話で、途中まで面白く読んでいたのですが(筋もそれなりによかった)途中で、あれあれと思い始め、半ば過ぎには、いわゆる「成功のハウツー」本だと分かったときには、色あせてしまいました。

ごていねいに、途中からは日記みたいな作りになっており、毎日日記をつけると”必ず成功する”ような体裁になっていました。白けたかな。いわゆる、マーフィーとかナポレオン某の成功メソッド本だったんですね。

アマゾンにリンクを貼ろうと思って本の紹介を読んでびっくり、1万円以上の定価でした。ありがたいようなそうでないような不思議な気持ちになりました。でも、やはり高すぎですね。

著者「オグ・マンディーノ(OG MANDINO)氏は、成功本で有名で、世界20カ国で翻訳され総販売数は2500万部を超えると紹介されています。購入した人の内どのぐらいの人が成功したのでしょうか、興味深いものがあります。

このような成功本は、実は読めば読むほど成功が難しくなると解いた本もあります。超意識 あなたの願いを叶える力 (坂本 政道著)です。成功本を何冊か読んだ人にはお薦めです。求不得苦から救われるかもしれない。

近頃、本屋さんでスピリチュアルの棚を見ると、「引き寄せ」本がかなり見られます。願望を引き寄せて幸せになる方法とかの本ですが、このような願望成就系も、あまり読み過ぎると求不得苦に陥ってしまいがちです。

だいたい、成功てなんでしょう。失敗ってなんでしょう。成功することが幸せなのか、失敗して幸せとかはありえないのか、そこら辺もよく考えてもらいたいところですね。失敗するために生まれてきたという人がいるかもしれない。そうだとすると、その人にとって成功するのはノーサンキューということになります。

先ほど、近所の郵便局にいったら、臓器移植ドナー登録の申請書がおいてましたが、臓器を移植して長生きして幸せなのか不幸せなのか、まずその辺を考えることも必要かと思います。死んで生きるということもあるし、生きて死ぬということもあるのではないでしょうか。それを一律というか、絶対的に生=幸せと固定するととんでもないことになるような気がします。富=幸せと固定するのもそうではないでしょうか。

河合隼雄と中沢新一の対談で(タイトルは忘れた)、ユダヤ人がチベットに修行にいくのだが、チベット僧は彼ら(ユダヤ人)を評して、確かに頭は切れるのだが、わかっちゃいないんだよな・・・というくだりがあって印象的だったのですが、多分それはそうなんでしょう。ユダヤといえば、金融界では別格で、世界金融の覇者ではあるのですが、最近の金融情勢を鑑みると、わかっちゃいないんじゃないかと思い始めざるを得ません。

先ほど紹介した超意識 あなたの願いを叶える力には、東北帝国大学で哲学講師を勤めたドイツ刷学者オイゲン・ヘリゲル(1884-1955)の著書、「日本の弓術 (岩波文庫)」について語られています。西洋と東洋の差がある意味、わかりやすく描かれています。日本がわからないオイゲンが最後の最後に分からせられたという内容で、薄っぺらい本なのですが、とても面白く、はまってしまったことがあります。お薦めです。

ミッション: 8ミニッツ

ミッション: 8ミニッツ、あっという間に見終わりました。面白かったなあ。

「乗客全員死亡」のシカゴ列車爆破事件ー 犠牲者の〈死ぬ8分前〉に入り込み、爆破を阻止せよ!だがその極秘ミッションには、禁断の真実が隠されていた…?英語原題「Source Code」(2011)

英語版を英語字幕で鑑賞したので、詳細はわからない?が、だいたいは分かりました。

ある程度のテクノロジーの説明はあったのですが、簡単にいうと、自分の体を抜け出て他人の体に意識が入り込むわけです。その時間は8分間。シカゴで列車が爆破された。その爆破までの8分間に他人の体に意識が入り込むことができる。それは、無限というわけには行かないが、ある程度なんどでもやり直すことができる。

というわけで、主人公は、爆発する列車の他人に意識を移して、なんども死ぬわけです。もちろん、ただ死ぬわけではなく、死ぬまでの間に、犯人を割り出そうとするわけです。

幽体離脱や輪廻転生をハリウッド映画にするとこうなるのではないでしょうか。そして、ラストのあ・ら・らというようなエンディングは良い。アメリカ映画はハッピーエンドじゃなくちゃ。

女優のミシェル・モナハン、ヴェラ・ファーミガがよかったなぁ。特にミシェル・モナハンとは何回もの同じ出会いがあるのだが、こちら(主人公側)は同じではなく学習効果を伴っているわけで態度も異なってくる。そしてこの主人公の態度にミシェルの対応も変化してくるわけなのだが、だんだん魅力的になってくるんだよね。見慣れてくるということもあるが、こちらの心理に反応してくるのも大きいだろうなあ。

黒住教の「立ち向かう人の心は鏡なり、己が姿を映してや見ん」というところでしょうか。人を変えるのではなく、自分を変えることが世界を変えることに直結するということかな。人を変えるのは大変、というか不可能といってもよい。それよりも、自分を変えることの方がより確実(とはいえ、やはり難しいのも事実)ではあると思う。そして、その変化に鏡は応えてくれるわけです。

話は、若干代わりますが、列車などで同席になった方とおしゃべりなんかしたいときは、出会い頭15-20秒以内に話しかけることらしいです。統計的には成功率が非常に高くなるとのこと。以前、実践してみたことがありますが、男女を問わずほとんどいい結果となりました。

脱線しましたが、これからはこの映画のように、幽体離脱や輪廻転生がテクノロジーで実用化される時代がくるかもしれない、などと思いつつ・・・。

「いつもの空を飛びまわり」読みました。

幽体離脱をテーマにした小説を探して手にしたのがこれ。「いつもの空を飛びまわり」です。本棚の背表紙で、「空を飛ぶ」ようなタイトルをさがして見つけました。面白かったな。

アマゾンの商品説明には、

12歳になる少女エマは、外科医の父親と、英語教師の母親のもとに生まれた。一見ノーマルで厳格そうなこの一家は、子供にとっては実に悲惨な家庭だった。母親は死んだエマの姉ジニーが忘れられず、ことあるごとにエマとひき比べる。そして父親は、毎日明け方になるとエマのベッドに忍び込み、実の娘をレイプしている。ある日、エマは父親のあえぎ声から逃れるため、心を肉体の外に飛ばす方法を覚えた。体の外の世界で、エマは死んだ姉の幽霊に出会い、彼女の死の真相についてヒントを授けられる。そして…クライマックスに次ぐ、クライマックス。読むたびに勇気が出る感動のラスト。国米で絶賛された、待望のミステリー・ファンタジー。ファンタジー小説のすぐれたデビュー作に与えられる、クロフォード賞受賞。

と書かれており、まあその通りです。ミステリー仕立てで、ぐいぐいと読者を引っ張ってくれましたね。就寝前に書を広げて、翌日の昼間に読み終わりました。この筋立ては、そうですね、今のハリウッド映画です。父親が悪漢で、勧善懲悪本というところでしょうか。わかりやすいのですが、それだけです。何も解決していません。悪いものが切り捨てられて終わりです。

つまらないときは、悪者を捜してやっつければいいのかという気もします。この筋のわかりやすさが、トンキン湾事件9.11を創り上げたのかと思ってしまいます。

病気なんかでも、悪いところを切り取って終わりとするのが普通ですが、悪くなった原因を取り除くということも大事なだと思います。

とはいえ、幽体離脱の描写は予想以上にリアルでした。何らかの体験が元になっているものと思われます。ここは評価したいですね。

そして再び 「彼岸の時間」

人類の発祥、神々の叡智、文明の創造、すべての起源は「異次元(スーパーナチュラル)」にあった100%実話!自然霊との対話 上丘 哲 (著)と紹介してきたら、ふたたび「彼岸の時間―“意識”の人類学」に戻らねばならないと思いました。

本を開いて最初のページ、「はじめに」を紹介します。

古代インドの奥義書『マーンドゥキャ・ウパニシャッド』は、人間の意識がとりうる状態を四種類に分類している。その四種類とは、日常的な覚醒状態、夢のない眠り、夢を見ている状態、そして、一種の超越的な意識状態、であり、この第四の意識状態こそが人間にとって、もっとも本来的な覚醒状態なのだという。

人間は特定の訓練によって、あるいは特定の状況下で、この「第四の意識状態」を体験する。それは、さまざまな側面から、トランス、悟り、サマーディ、神秘体験、変性意識状態、シャーマン的意識状態、エクスタシー、法悦、サイケデリック体験、至高体験、トランスパーソナル体験などと呼ばれてきた、一連の非日常的な、しかし古今東西の入間が共通して体験してきた意識の状態である。そこでは日常的な〈俗なる〉時間は停止し、一瞬が永遠であるような〈聖なる〉時間の中で、人は世界の根源的な神秘に触れる。

おそらく人類は数万年の過去から、シャーマニズムやトランス・ダンスという形で、この「第四の意識状態」を、個入的な美的体験として、また社会的な問題解決の技術として活用しながら生きてきた。しかし、われわれの祖先が定住的な共同体を拡大させ、さらに中央集権的な権力を発達させていくにしたがって、「第四の意識状態」は宗教というイデオロギー装置の管理下に置かれることになる。宗教は一方では土着的なシャーマニズムの思考をより普遍化することによって科学と思想の母となったが、一方では超越的な意識状態を現世的な権力に迎合させる装置としての役割も果たすこととなった。宗教は神秘的な経験の領域を、自らの教義に合致するように統制する云で、合致しないものは排除した。シャーマニズムはどんな時代にもどんな場所にも存在したが、それはオーソドックスな宗教からはつねに排斥される存在であり、世界の神秘に褒触れようとした神秘主義者たちは・宗教的権威から繰り返し異端視されることになった。

近代のイデオロギーである資本主義もまた特異な形態の宗教だといえる。貨幣を至高な呪物(フェティッシュ)として崇拝する資本主義経済への信仰は、因果性の原理にもとずく高度な科学技術を武器にして、生態系を破壊し、共同体を破壊し、既成宗教の権威をも破壊しつつ、その勢力を全地球規模で広げてきた。近代社会の教義はいわゆる「覚醒状態」を唯一のリァルな意識状態だと考え、睡眠や夢は誰もが経験することは認めてもそれ自体に意味があるとは見なさない。さらに「第四の意識状態」に至っては、存在すること自体が異常と見なされる。これは、「第四の意識状態」こそが本来的な経験なのだというウパニシャッドの思想とはするどく対立する。

しかし、いわゆる先進国でも、無限に発展を続ける貨幣経済が楽園の到来を約束するという神話を信じることが難しくなりつつある現在、かといって既成宗教が求心力を失ってしまっている状況の中で、人々の呪術的シャ-マニズム的なものへの関心はふたたび高まりつつある。救命医療の飛躍的な進歩は逆説的なことに臨死体験者を増加させている。象徴的な〈死と再生〉を経験した臨死体験者は、資本主義的な競争原理への関心を低下させ、神秘的な経験の領域への関心を深める。しかし、だからといって既成宗教への信仰へと回帰することはない。資本主義と科学技術の燗熟した時代の中で、「第四の意識状態」がふたたび宗教という装置の検閲を経ない生の形で経験される状況が生まれてきている。われわれの祖先が狩猟採集民だったころの、いわば野生の神秘体験が復権しつつあるのだ。しかも、宗教の権威から白由であるというだけではなく、現代という時代は、シャーマニスティックな「霊魂」という実体概念からも自由でありうる。人類史上、意識の神秘それ自体について語れるようになった初めての時代だといっていい。

資本主義的世界システムの勝者である「先進」社会の一端を成しながらも、西洋社会に比べてキリスト教的な権威や、その裏返しの東洋趣味(オリエンタリズム)からも自由であり、またかつてのソ連や中国のような国家的な唯物論信仰からも白由な、極東アジアの日本という不思議な場所から、「〈意識〉の人類学」を語り始めることにしたい。

紹介してきた関連書、”ハンコック”も”自然霊”も含まれる状況認識がさなれていると思います。否定的でなく、肯定的な捉え方は好きですね。

ということで、今後も折に触れ、この書籍について語ることがあると思いますのでよろしく・・・。