文春新書 グーグル Google 佐々木俊尚

グーグル―Google 既存のビジネスを破壊する 文春新書を読みました。

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)とともに読めば、グーグルに対する理解が深まることと思います。

第一章で、グーグルニュースに対する日本の新聞メディアの動き。

第二章、第三章は、「B&B羽田空港近隣パーキングサービス」という駐車場を経営している山崎夫妻が困難の中、Googleのサービスとの出会いと学習、コラボレーションの様をドキュメント。

第四章では、福井市内の地場メッキ工場、「三和メッキ工業」のガンコ経営者とパソコン好きの息子が利用した、Googleのサービスと中小企業のサクセスストーリィ。

第五章では、グーグル躍進の起爆となったアドワード、アドセンスについて整理されていて、勉強になりました。

第六章は、総括。

第一章は、新聞記者ならではの視点。第二章から第4章までは、実際、不況であえいでいる中小・零細企業家には読んでもらいたいところですね。第五章も整理されていたし、第六章は、実際に今後のグーグル覇権を考える材料となります。

元気のいい本、読んでみたよ。

B級グルメではありませんが、ダイレクトなもの言いの書籍には妖しい魅力があります。まとめて図書館で借りてみました。

 

以上の4冊。
「アフィリエイトで月収50万円」の著者小林智子さんは、カリスマアフィリエイター主婦ということで、有名な方らしい、2004/3月に「アフィリエイトで月収30万円」をだしてから、2005/4月に「アフィリエイトで月収50万円」をだしているので、1年間に20万円も月収がアップしている。その後の昇級は不明だが、本は次々に出している。

 

小林智子さんのお友達が出したのがアフィリエイトでめざせ!月収100万円―ウェブサイトでバナー広告収入を得る秘訣とは?だ。これが出たのが2004/8月。後書きで、「アフィリエイトで月収30万円」の発売記念パーティー(2004/3月)で、名刺交換した秀和システムの編集者から進められて本を出したとのこと(後書きで本人が記している)。五ヶ月で売り上げを3倍以上にかさ上げた本を作ったわけだ。

 

ご両人とも、その後の昇級は不明だが、続いての本、ネットで儲ける人が秘密にしていること 本当に儲けている人は何をしているか?のケーススタディに1000万円プレーヤーの勝吉章さんが12ページにわたり紹介されている。その最後の部分を抜粋してみよう。

 

成功の秘訣/月間1000万円プレイヤーの勝吉さんの成功の秘訣。それは、以下のことがいえるのではないだろうか。
1.ネットを過信しない
「とにかくネットショップなら売れる」「絶対にお客は来る」というように、ネットショッピングの現状を正面から捉えて、「どうすれば売れるショップが作れるか」ということに注力した。
2.ここでしか買えない-高い商品力
喫煙草やマジックリスニングなど、少し怪しい気もするがほかでは手に入らない、実際の店舗では買いづらいものを中心に商品をラインナップ。サイトの希少性で集客力を高めた。
3.ユーザーライクなサイト作り
作る側の視点ではなく、買う側の視点でサイト作りをした。「1アイテム1ページ完結型」が最たる例。ユーザーがストレスを感じることなく、スムーズに買いものできる環境を提供した。
とにかく快進撃を続ける勝吉さんのネットショップ。こんごも、どんなユニークな商品が出てくるか楽しみだ。
抜粋とはいえ、どうも、これがこの本のすべてらしい。当たり前といえば当たり前で、嘘はないのだが、たとえば、絶対損をしない方法ということで、「仕入れた金額以上で売ること」と指南するようなもので、いい加減にしろよとはいいたくなるなぁ。
ちなみにケーススタディで紹介されている勝吉さんのサイトはhttp://www.princesse.com/。1000万円プレーヤーが何を意味するかが曖昧なのだが、どうやら1000万円の売り上げらしい。仕入れと経費がどれぐらいかかっているかは不明。つまり、赤字でも嘘ではないということだ。サイトを見る限り、一人で作っているわけではないようなので、人件費などの経費はそこそこかかっているでしょう。

以上の「ダイレクトなもの言いの本」の中では、できる100わざプログが一番のできでしょうか。タイトルとしては一番地味ですね(派手なほどダメだと暗喩しているわけではない?)。指南書としては抜群の出来だと思います(余談ですが先ほど、アマゾンで中古を購入、送料込みで341円でした)。

「アフィリエイトで月収50万円」の著者小林智子さんはキャラクターとして成功なされたのか、その後も沢山の書籍を出されています。主婦であることがウリなのだと思います(美人という要素があるかどうかを調べようと思い、画像検索したのだが、同姓同名が沢山いたので特定できずに断念。とくにウリになるほどの要素ではないと判断させていただきました)。また、本もムードがほんわかしているというか、生活臭さがない夢見ごこちの本なんですよね。読んでいるうちに「がんばれ!」と声援したくなる。逆にいうと「声援させられてる」、ここがミソです。読者としてそうなら、近くの人間はかなりのエネルギーを声援に費やさせられるのではないかと心配しています。

ということで、わたしとしては、旦那さんに「がんばれ!」と声援しておきましょう。

禁じられた知―精神分析と子どもの真実 /アマゾン投稿

忘れもしない、私のアマゾンのレヴューデビューは禁じられた知―精神分析と子どもの真実でした。残念なことにこのレヴュー、しばらく前から文字がかぶってしまい、読めなくなっていたのです。

今日、たまたま昔のパソコンをいじっていたら、オリジナルのファイルが見つかりました。念願の修正を施すことができ、アマゾンのサイトで読むことができるようになりました。これも何かの縁でしょうから、この場にも掲載しましょう。

以下がそうです。

幼児期に体験したことが大人の無意識内部に蓄えられており、精神病症状として表現されるという事実はまず、ジクムント・フロイトによって発見されました。フロイトは自分の扱っていたヒステリー患者の全てが、子供時代、性的に弄ばれた経験をしていることに気づき、そこからこの事実に至ったのです。ところが、フロイトはまもなく、自分の患者の言うことを信ずるのをやめてしまい、患者が子供時代、性的に弄ばれたと語るのは単なる幻想であるとみなすことに決め、衝動理論に転じていくのです。

著者アリス・ミラーは、ただひたすらさまざまな例を紹介しながら、そのフロイトの転向を告発し続けるのですが、きわめて説得力があり分かりやすいのです。そして、フロイトの転向による問題はかなり明快に論破しています。フロイトを難しく考える方にはお勧めです。

昨今、日本でも小学生誘拐、拉致事件などが勃発していますが、原因を調べる上では、この本の、『個性的虐待は、世代を超えた連鎖の結果』という視点は重要です。

また、100ページ以上にわたる、有名な「変身」の作者、フランツ・カフカの分析は圧巻です。下手なミステリー顔負けの推理ともいえる分析は、スリル満点でした。カフカに興味のある方は必読です。

500ページ近くのボリュームですが、集中が途切れることなく最後まで楽しめました。アウシュビッツロリコン、渋谷の小学生誘拐、新潟の中学女子生徒拉致、家庭内暴力など、社会問題から文学まで、この本の関与する問題は今後も多発し続けることでしょう。

アマゾンへのレヴューはそこそこ書いています。実名で書いてますので、禁じられた知のレヴューから辿ってもらえればすべて読むことができます。禁じられた知は記事がだぶってしまいましたが、いままで読めなかったのが読めるようになったと言うことで、勘弁してもらいましょう。他はだぶっている記事はありません。すべてオリジナルです。

で、なんでこの本を読んだのか考えていたのですが、多分ファミリー・シークレット―傷ついた魂のための家族学を読んだ後に書店(東京駅前の八重洲ブックセンター)で類書を見つけ購入したのではないかと思います。ですから、1995年頃に読んだのですね。15年前か。

いずれもおもしろい本でしたね。ファミリーシークレットは家族間に秘密は保てないという本です。とはいっても秘密のない家庭は多分ないと思うのですが、ところが当人は秘密を隠し仰せたとおもっても、家族には伝搬し、とくに親の秘密は子供に結実してしまうという内容でした。いわゆる「親の因果が子に報い・・・」というようなものです。仏教で言う「業」ですか・・・、この業を絶つのがある意味人間の使命でもあるというような話はききますね。親と子は本当に長い間一緒にいるわけですから、どうしても似てしまいますよね。始末の悪いことに当人同士はそれがわからないわけです。当たり前だと思ってしまう。意識して自覚しない限り、死ぬまで業を背負ったままなのです。「かわいい子には旅をさせろ」といいますが、これは子供のためであると同時に親のためでもあります。

話がそれてしまいましたが、まぁ、難しい本なのにどうして私が読むことになったのかはそのようなわけです。ファミリー・シークレット―傷ついた魂のための家族学は書店で展示されている本を立ち読みして購入しました。おもしろい本は、結構覚えているもんですね。

幻の映画 ア・ルース・ボーイ 見ました。

仙台メディアテーク7階スタジオシアター(スクリーンに描かれた街 仙台)にて「ア・ルース・ボーイ(出演者小嶺麗奈/岡田義徳/KONTA)」鑑賞しました。

全編仙台ロケということで、見ていて飽きなかったな。原作者佐伯 一麦氏のゲストトークもおもしろかった。会場には、当時エキストラや映画の赤ん坊役で出演した方々も鑑賞にきていたりしていて盛り上がりました。映画もよかった。

帰り際に映画好きの知り合いに会ったので、「映画の出来はどうなの?」と聞いたら「良くない」との応え。また、「ああいう小説を映画にするというのはどういうこと?」と聞いたら、「私小説ですよ」という応え。この「私小説」という言葉が妙に腹に落ちたなあ。

学生時代に吉本隆明の「共同幻想論」が大ブームになり、読んだのだがさっぱりわからなかった。この本の中に、個人幻想、対幻幻想、共同幻想というキーワードが出てくるのだが、全くわからない。わからないままに、結婚して子供ができて、先日子供たちが独立して家をでていったのだが、おぼろげながらに個人幻想、対幻想、共同幻想の重要性がわかり始めたような気がする(共同幻想論はわからないまま)。

簡単にいえばこうだ。社会的に断絶した状態で一人でいる。ま、学生時代が個人幻想の領域。恋をして(しなくても)結婚したら対幻想の領域。子供ができたら共同幻想の領域だ(子供ができなくても、社会生活を営んでいればその領域は共同幻想の領域になるのだが、話を簡単にするために)。

わかりやすくいうと。例えば夫婦げんかをしたとしよう。たいした理由で始まるわけではないのだが、ま、原因がある。喧嘩が収まらない場合には、子供たちが夫と妻の言い分を判断する。社会的な問題の場合は、裁判所が判断するわけだが、このような第三者の判断が効力をもつ状態が共同幻想の領域だ。

ところが、子供たちが独立していなくなった場合。夫婦げんかに第三者は介在しなくなる。社会的にも「夫婦げんかは犬でも食わない」ということばがある。そうすると、どうなるかというと。

強いものが勝つ。

これが対幻想の領域だ。愛も理屈も、客観的判断がない状態。しかも二人しかいないのだから、中途半端な妥協などは一切ない。あるのは勝者と敗者のみ。対幻想は、ここまでにしておこう。なかなか危険な領域ではある。

そして個人幻想です。これを体験的にいうと「時間がなくなる」状態です。自分しかいない、自己完結しているわけですから、起承転結が起結になり、さらに起結すらいらなくなるように早く完結する状態です。理屈もある意味いらない。自分が納得すればいいわけですから。

ということで、ア・ルース・ボーイに戻ると、この主人公の男の子は対幻想の領域にいるように見えるのですが、子供は自分の子供ではないわけですので、おそらく個人幻想の領域にいるままなのでしょう。相手役の女性は共同幻想の領域にいます。映画ではでてきませんが、赤ん坊の父親との交渉もしているわけですから。当然、主人公の甘さはしっかりとわかっています。

最後には女性と赤ん坊が主人公の元を去っていくわけですが、これは当たり前の結論ですが、主人公には全くわからない。よって、映画では甘くきれいに撮られているわけですが、まあ、マスターベーションでしかない。こう考えると、映画冒頭のひまわりが画面いっぱいに映り出される場面とか、映画なかほどのモンキーズTVドラマ(古いか)のプロモビデオのような場面も納得がいく。ただただ甘い場面だけだったのだ・・・。

そして、私の疑問「こんなひとりよがりな物語を映像化する理由はあるのだろうか?」があるのですが、映画通は「私小説」と言ってくれたので腹に落ちました。

実は、この日仙台フォーラムにて、「ア・ルース・ボーイ」の前に「雪国(1957東宝/主演岸恵子・池部良)」を鑑賞していて、質の良さに感激していたところもあったので「ア・ルース・ボーイ」に辛い疑問をもつことになったのでしょう。

「雪国」観賞後にも対幻想に考えが及んでいたこともあり、「私小説」ということばで、それがつなぎ合わされたということも腹に落ちた理由なのかもしれません。

余談ですが、この映画の製作費用は8500万円とのことです。今回が二回目の披露ということですが、前回が80名ほど、今回が200名ほどということで、8500万円を1/280で計算すると、おお、303,571円だ!!

吉本隆明 x 中沢新一 /<アジア的なもの>と民主党政権

中央公論2010/4月号掲載の対談ですが、昨日図書館に予約してあったものを借りてきました。インターネット徘徊中に対談の話を見つけ、書店で探したのですがなく、図書館に予約すること数週間後にようやく読むことができました。中央公論は廃刊せずに生きていたのですね、しかし、書店ではなかなかみつからないなあ・・。

対談はおもしろかったですね。河合隼雄さんと中沢新一さんの対談は、河合さんがやさしく包むように接してくれましたから、中沢さんの甘さというものはなかなか露呈していませんでしたが、この対談はイーブンですから、なかなか噛み合わないというか、咬み合わないというか、ずれたままで終わっています。

まずは<アジア的なもの>がわかりずらいですね。これは単に<西洋的なもの>ではないということでよろしいと思います。

マルクス・レーニン主義といいますが、「レーニン」は後から付けたもので実際にはマルクス主義。

社会主義といえば、最初はロシア革命で、レーニンが成し遂げるのですが、そこの解釈がいろいろあります。当たり前ですが。

社会主義といえば、中国は毛沢東ですね。レーニンも毛沢東もマルクス主義を実現しようとしたのではなくて、ロシアも中国も革命前は政治的にはとにかくひどい状況だった。社会も悲惨でほとんどの民衆は奴隷みたいな生活を余儀なくされていた。そういった民衆を救うために時の体制、権力と戦うために、レーニン、毛沢東が拠り所として選んだのがマルクス主義というものだったのです。

毛沢東のことばで、「白い猫も黒い猫もねずみをとれば良い猫だ」とかいうような言葉がありますが(念のため読み直したら、対談中に吉本隆明は鄧小平の言葉として引用してますが、毛沢東が実践論、矛盾論でこの言葉を使っていたように記憶しています、まちがったらごめんなさい)、極論すれば、権力を奪取するために役立つものはマルクス主義だろうが、何だろうが良いわけです。

ところが、マルクス主義というのは非常に精緻な理論なわけで(だから、レーニンや毛沢東が選択したわけですが)、非常に期待させるわけです。しかしながら、ロシアも中国もユートピアにはならずに先の権力に近い、専制ならず独裁国家(共産党独裁)になってしまう。もしくはなったままになりそこからユートピアへと進化しない。

そこを中沢氏はなんだと思うのだが、理屈だけで権力は変化してはいかないわけで。権力を取り巻く環境、指導者の人間性などがいろいろに重なり合ってくる。

さて、民主党の話になると、今回の政権が交代したというのはかなり大きな事実で、吉本氏は以下のように述べています。

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吉本 いろいろな前提がありますが、民主党がこれからどこまで行くかといえば、だいたいロシア革命の後、レーニンが突き進んだ地点の直前まで行く可能性があると見ています。

中沢 その前提はものすごく難しいですね。

吉本 難しいです。それは国民全体の雰囲気が民主党支持になったら、そこまで行くということですね。

昔も今も僕は、レーニン主義までいったらだめだよといっているんです。レーニンの死後、スターリンはレーニンを神格化し、独裁体制を作った。レーニン主義の限界は、哲学者の三浦つとむさんが『レーニンから疑え』と、スターリン言語学批判によって指摘していますから、それを読めばわかりますよ。

中沢 三浦さんの『レーニンから疑え』は単純なレーニン主義批判じゃないですね。

吉本 ええ。僕は戦後、三浦さんから『資本論』を解説してもらったんですよ。共産党のいわゆる主体性唯物論者の中で、三浦さんが一番わかっている。「わかっている」という言い方は傲慢ですけど、僕らが考えているマルクスを中心とする本格的な政治構造や政治思想を本当にわかっているのは、この人だなあと思った。

三浦さんは「レーニンはあまりいい弁証法じゃないよ。エンゲルスの『自然弁証法』と同じで、人間の思想とか観念がどう働くかという事が埒外になっているから、うまくいくわけがないよ」と言っていた。いまからすると簡単なことかもしれないけれど、当時、こんな風に言い切ったのは三浦さんだけだった。

中沢 三浦さんの思想と、いろんな前提や条件が整うとレーニン主義に近づいていく可能性のある民主党との関係は・・・・。

吉本 背中合わせに近いと思いますね。ただ、民主党の人たちがそこまで考えているかはわからない(笑い)。でも、『レーニンから疑え』は、いま民主党の人たちが読むと一番いい本です。

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時代は大きな変化を予兆しており、民主党が政権をとったというのは、その始まりでもあり、これから、いろいろな動きがでてくる。それを、例えば「民主主義とはかくあるべし」とかいうような一般論で読み解くことはできない。レーニンの始まりをよく見ましょうという所ですが、それに関して、中沢氏がマルクス主義を語るのに対し、吉本氏は権力闘争を語っているわけですね。

同じ言葉を使っている対談ですが、中身はかなりすれ違っています。吉本氏が中沢氏などに期待するといっていますが、中沢氏ではだめでしょう(世代の問題で、中沢氏個人の問題ではありません)。もっと若い人、例えば、現在職に就けずに虐げられている20代、30代の人たちが理想を掲げて(世にすれずに)がんばらなくてはならないでしょう。