煩悩リセット稽古帳/小池龍之介

煩悩リセット稽古帖をさらさらと読んでみましたら、おもしろかったですね。

人間の根本煩悩は貪瞋痴(とんしんち)、むさぼりといかりと無知の三毒といいますが、三毒についてわかりやすく解説してくれます。斬新なというか、型にはまらないというか、著者独自の言い方で説明してくれています。

出だしを以下にご紹介しましょう。おたのしみください。

業と煩悩
煩悩について四コマ漫画説法とまいります前に、業(カルマ)についてごく簡単に説明しておくことといたしましょう。
業(カルマ)とは、「心の中に蓄えられだエネルギー」のこどです。生命は、この業のエネルギーを便って、身体を勤かしたり言葉を話したりいたします。そもそも心の中で何かを考えることにすら、この業のエネルギーが使われているのです。
そして、このエネルギーは、わたくしたちがそれを使って考えだり話したり行動したりするたびごとに、新しく次々と生まれ続けます。
たとえば、音楽を聴きましたら、聴いた後味がしばらく心の中に残るでしょう。この後味が、新しい業のエネルギーです。また、人にイヤな言菓をぶつけましたらやはりネガティブな後味が心の中にしばらく残ります。
あるいは、頭の中で暗いことを一度考え始めるとそのネガティブな思いはすぐには消えず、しぽらく影響を及ぼし続けるこどでしょう。ネガティブな業が心の申で活性化していましたら、ポジティブな言葉を言おうとしてもついついネガティブな言いかたになってしまっだりいたします。これはネガティブな業が結果を出して、報いを受けたどいうことでもあります。しかもそうやってネ
ガティブなこどを口にしたため、さらに新たなネガティブな業を積むことに・・・。
一つひどつの行為には濳在エネルギーが含まれていて、そのエネルギーが心へとフィードバックされ、次へど連鎖するカをもっているのです。
もっとあっさりと申しますなら、ある行為はそれだけで終わるこどはなく、残存余力とか余波とか波紋などと表現できるものをもっていて、走っている電車が急ブレーキをかけてもすぐには止まれず、揺り返しが起こるようなものと申せます。
たとえば、誰かに妖妬するネガティブな煩悩エネルギーをつくりますとき、そこに働いていますのは、他人の成功を拒否しようとする瞋恚の業です。そのエネルギーはそのまま消えることは決してなく、濳在意識にグーッとこびりついて蓄えられるこどになります。
すると、その分、それ以降さらに嫉妬しで蓄しみやすい性格がこびりつくのみならず、何かを拒否して不快感を感じると、その分、瞋恚のエネルギーが増します。するとさらに、他入のちょっとした言葉に傷つきやすくなったり人の助言を素直に聞けなくなったりと、イライラしやすいイヤな人になるのです。
このような業の煩悩エネルギーは、遇去からずっと運鎖しながら、わたくしたちの心を少しずつ変化させています。そして、業を溜め込みすぎますと、それに応じた負の波動を放つようになります。すると、それが周囲の他入を緊張させたり反発を感じさせだりもするのです。
また、心がイライラして不快感に染まると、体内に有毒物質が生まれて、身体中を駆けめぐり始めます。現代的な申し方をするなら、過剰なノルアドレナリン尿酸のような有害物質分泌され、臓器にダメージを与えだり、胸やおなかが苦しくなったり、頭が痛くなったりいたします。
これが、「心は物質をつくる」どいわれるゆえんでありまして、心がある特定の状態になると必ず、それに応じた微細な生化学的な物質が身体内でつくられて、身体に生化学晰な反応を引き起こし続けるのです。
そして。心身ともに不快な状態に置かれてしまうと、身のまわりの物事に対して、さらにイライラした反応をしやすくなる、という回路が徐々にインストールざれていってしまうのです。
何を思うか、どう感じるか、どう反応するかは、こうした過去に無限に積み重ねてきた、小さな業が積もりに積もってできあがった複合体によって、ほどんど決まっていると申せましょう。
晴れている日に、「あ、晴れてるなんて、いやだな」と感じる、その感情の背景には、過去無限にわたる瞋恚の業の蓄積があります。その業が急にポップアップしてきた結果、「あ、晴れてるなんて、いやだな」どなるわけです。
同じ「晴れ」が、別の業を背景にしている入にとっては、「あ、晴れだ! さわやかで気持ちいいな」になることもあるわけですし、同じようにさわやかに感じる人でも、誰ひとりとして同じさわやかさを感じるわけではありまぜん。ちょっどざわやかに感じる人もいれば、うれし泣きしたくなるほど感動しちゃう人すらいるかもしれません。
このように、わたくしたちを裹から操っている潜在力、それが業でず。そして、業のうち、負の業をつくるもので、もっとも強力なのが、煩悩の中の根本煩悩、 貪欲・瞋恚・愚痴です。
根本煩悩 三毒
貪欲・瞋恚・愚痴-この三つは、心を汚染してストレス源になるというこどから、仏道において三毒と名づけられています。
煩悩は数多くありますけれども、いかなる煩悩も、この、貪欲・瞋恚・愚痴、言い換えれぽ、欲望か嫌悪感か迷妄どいう三毒が組み合わさることによって発生いたします。ゆえに、この三毒をもって根本煩悩と名づけるこどができるのです。
煩悩とは、「煩」わせ「悩」ませると書きますように、まざにわたくしたちの心身にダメージを与え、ストレス源になる毒素です。欲望がないと頑張れないじゃないか、とお思いでしょうか。いえ、欲望ど意欲は。別物です。欲望や怒りの煩悩エネルギーを燃料にして無理に頑張りますど、アドレナリンが身体を刺激します。アドレナリンの過剰な分泌は、後に強いストレスを残し、心身をぐったりさせてしまいます。
煩悩とはすべて、心が頭でつくり出す幻のようなものです。すなわちそれらは、現実の目の前にあるリアルな感覚を離れで、脳内で欲・怒・迷をクルクルど回転させる、脳内自慰のようなものとも申せましょう。
煩悩こそがリアルな現実だとお考えでしょうが、実際は、煩悩が外から入ってきた情報をねじ曲げ、わたくしたちを、現実から遠ざけ脳内物語へど引きこもらせてしまうのです。
誰もが、自分の脳内に引きこもって煩悩にふげるのが大好きです。しかしながら、誰もが他入の脳内引きこもり、すなわち他人の煩悩は大嫌いです。
つまり、他人が「欲」で自分に対して過剰に求めてきだり、「怒り」で責めてきたり、あるいはいっしょにいるのに「迷い」ゆえに心ここにあらずどいった風合いで、こちらの話を聞いてくれなかったりすると、誰だって腹が立つ、すなわち「怒り」の煩悩を刺激されるものです。
このシンプルな真実に気づいて、脳内引きこもりから脱出しましたら、対人トラブルなんてゼロにできるどいう道理です。

三毒と回転・反発・引カエネルギー
三毒のうち根本の煩悩エネルギーは、愚痴です。目の前の現実がつまらないからといって、集中せずに脳内物語へと逃避しようとしてさ迷う力です。この逃避の煩悩エネルギーは、脳内でクルクルと回転し続ける妄想の回転エネルギーともいえ、この回転エネルギーをベースにして、残りの二つの煩悩、瞋恚・愚痴もしくは貪欲のエネルギーが発生いたします。
愚痢が回転力であっだのに対して、怒り(瞋恚)は、不愉快な対象を押しのけて排除しようとする反発力のエネルギー。欲望(貪欲)は、快感を与えてくれるものを「もっとッもっどッ」ど引き寄せようとする引力のエネルギーです。
ですから、ひとくちに怒りど申しましても、日常語のいわゆる「怒ったぞ」といったものより、ぱるかに意味の広いものとお考えください。心の中に、少しでも押しのけようどする反発力が働いていますなら、それは「怒り」ということなのです。
「今日は仕事に行くのが憂鬱だなあ」とネガティブな思考をいだしましただけでも、その反発力が怒りの暗い煩悩エネルギーを増幅させて、今後の心に悪影響を及ぼすストレスの種を残します。「誰も相手にしてくれなくてさびしいな」「昨日は失敗してしまった、あーあ」などなど、これらのネガティブ思考はすべて、暗い怒りの煩悩エネルギーを燃料として湧きあがってくるのです。
瞑想により心を観察していてわかりますのは、いわゆる「怒る」のも「妬む」のも「ケチる」のも「後悔する」のも「悲しむ」のも「さひしさ」も「不安」も「緊張」も、根はひとつ、怒りの煩悩エネルギーを燃料として生じている衝動だどいうことです。
これらの思考が起こるときには、一見、別の思考に見えても、何かに対しで「イヤイヤッ」とばかりに反発する、同じ種類のエネルギーが働いているのがわかります。
そして、こういった負の感情に流されますたびに怒りの煩悩エネルギーの総量が増えますから、その燃料を使って、それ以降、ネガティブ思考に陥りやすい入格が形成されるこどになります。要注意!です。
愚痴(まよい)の煩悩エネルギーは、集中力や没頭力を破壊しますから、デメリットがわかりやすいでしょう。貪欲の煩悩エネルギーも、強烈な毒素として、わたくしたちの思考回路を歪ませますから。そういったデメリットをよく理解すれば、それを減らしてゆくモティベーションがもてるでしょう。煩悩の汚れを薄めて、麗しき人格を磨いてまいりましょう。
・・・とまぁ、こんな感じですが楽しんでいただけたでしょうか。もっと読みたい、もしくは知りたいと思う方は、書籍を購入されるか、以下のサイトにアクセスしてみてください。
では。

岸辺の旅 / 湯本香樹実

岸辺の旅 読みました。

死んだ夫と旅を続ける物語です。一種の銀河鉄道の夜ですかね。

非常にしっとりとした感じがしました。傍らの人間が生きていないわけですから、過去にフォーカスする小説です。どこまでいっても、未来はなく、ただひたすら過去・・・。

セピア色の思い出とよく言いますが、昔はよくわからなかった。この年になって、薄れていく記憶に気づくにしたがい、セピア色の思い出、ノスタルジー。戻れない過去、失ったものの大きさ。そういったものの大事さに気づくようになりました。本当にどうしようもないのですが、決定的なのは過去には戻れないということです。

だから、僕的には、この手法は禁じ手ではあります。戻らない過去を思うより、これからどうするかの方が、自分の意志を世界に投げかけることができます。人間は一度に一つのことしかできません。過去を見るか未来を見るか、迷ったら未来を見ていきましょう。

とはいえ、美しい小説ではありました。著者の湯本香樹実氏の画像を検索したら、イメージしていたヒロインにぴったりでした。

吉本隆明 x 中沢新一 /<アジア的なもの>と民主党政権

中央公論2010/4月号掲載の対談ですが、昨日図書館に予約してあったものを借りてきました。インターネット徘徊中に対談の話を見つけ、書店で探したのですがなく、図書館に予約すること数週間後にようやく読むことができました。中央公論は廃刊せずに生きていたのですね、しかし、書店ではなかなかみつからないなあ・・。

対談はおもしろかったですね。河合隼雄さんと中沢新一さんの対談は、河合さんがやさしく包むように接してくれましたから、中沢さんの甘さというものはなかなか露呈していませんでしたが、この対談はイーブンですから、なかなか噛み合わないというか、咬み合わないというか、ずれたままで終わっています。

まずは<アジア的なもの>がわかりずらいですね。これは単に<西洋的なもの>ではないということでよろしいと思います。

マルクス・レーニン主義といいますが、「レーニン」は後から付けたもので実際にはマルクス主義。

社会主義といえば、最初はロシア革命で、レーニンが成し遂げるのですが、そこの解釈がいろいろあります。当たり前ですが。

社会主義といえば、中国は毛沢東ですね。レーニンも毛沢東もマルクス主義を実現しようとしたのではなくて、ロシアも中国も革命前は政治的にはとにかくひどい状況だった。社会も悲惨でほとんどの民衆は奴隷みたいな生活を余儀なくされていた。そういった民衆を救うために時の体制、権力と戦うために、レーニン、毛沢東が拠り所として選んだのがマルクス主義というものだったのです。

毛沢東のことばで、「白い猫も黒い猫もねずみをとれば良い猫だ」とかいうような言葉がありますが(念のため読み直したら、対談中に吉本隆明は鄧小平の言葉として引用してますが、毛沢東が実践論、矛盾論でこの言葉を使っていたように記憶しています、まちがったらごめんなさい)、極論すれば、権力を奪取するために役立つものはマルクス主義だろうが、何だろうが良いわけです。

ところが、マルクス主義というのは非常に精緻な理論なわけで(だから、レーニンや毛沢東が選択したわけですが)、非常に期待させるわけです。しかしながら、ロシアも中国もユートピアにはならずに先の権力に近い、専制ならず独裁国家(共産党独裁)になってしまう。もしくはなったままになりそこからユートピアへと進化しない。

そこを中沢氏はなんだと思うのだが、理屈だけで権力は変化してはいかないわけで。権力を取り巻く環境、指導者の人間性などがいろいろに重なり合ってくる。

さて、民主党の話になると、今回の政権が交代したというのはかなり大きな事実で、吉本氏は以下のように述べています。

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吉本 いろいろな前提がありますが、民主党がこれからどこまで行くかといえば、だいたいロシア革命の後、レーニンが突き進んだ地点の直前まで行く可能性があると見ています。

中沢 その前提はものすごく難しいですね。

吉本 難しいです。それは国民全体の雰囲気が民主党支持になったら、そこまで行くということですね。

昔も今も僕は、レーニン主義までいったらだめだよといっているんです。レーニンの死後、スターリンはレーニンを神格化し、独裁体制を作った。レーニン主義の限界は、哲学者の三浦つとむさんが『レーニンから疑え』と、スターリン言語学批判によって指摘していますから、それを読めばわかりますよ。

中沢 三浦さんの『レーニンから疑え』は単純なレーニン主義批判じゃないですね。

吉本 ええ。僕は戦後、三浦さんから『資本論』を解説してもらったんですよ。共産党のいわゆる主体性唯物論者の中で、三浦さんが一番わかっている。「わかっている」という言い方は傲慢ですけど、僕らが考えているマルクスを中心とする本格的な政治構造や政治思想を本当にわかっているのは、この人だなあと思った。

三浦さんは「レーニンはあまりいい弁証法じゃないよ。エンゲルスの『自然弁証法』と同じで、人間の思想とか観念がどう働くかという事が埒外になっているから、うまくいくわけがないよ」と言っていた。いまからすると簡単なことかもしれないけれど、当時、こんな風に言い切ったのは三浦さんだけだった。

中沢 三浦さんの思想と、いろんな前提や条件が整うとレーニン主義に近づいていく可能性のある民主党との関係は・・・・。

吉本 背中合わせに近いと思いますね。ただ、民主党の人たちがそこまで考えているかはわからない(笑い)。でも、『レーニンから疑え』は、いま民主党の人たちが読むと一番いい本です。

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時代は大きな変化を予兆しており、民主党が政権をとったというのは、その始まりでもあり、これから、いろいろな動きがでてくる。それを、例えば「民主主義とはかくあるべし」とかいうような一般論で読み解くことはできない。レーニンの始まりをよく見ましょうという所ですが、それに関して、中沢氏がマルクス主義を語るのに対し、吉本氏は権力闘争を語っているわけですね。

同じ言葉を使っている対談ですが、中身はかなりすれ違っています。吉本氏が中沢氏などに期待するといっていますが、中沢氏ではだめでしょう(世代の問題で、中沢氏個人の問題ではありません)。もっと若い人、例えば、現在職に就けずに虐げられている20代、30代の人たちが理想を掲げて(世にすれずに)がんばらなくてはならないでしょう。

みんなが幸せになるホ・オポノポノ

みんなが幸せになるホ・オポノポノ読みました。

仏教の唯識思想をシンプルにいうとこうなるんでしょうね。間違ってはいないと思います。

この本いわく、「わたしたちの潜在意識に1秒間に100万個も立ち上がってくる記憶をクリーニングしてゼロの地点に立つことができれば、聖なる知能がわたしたちに降りてくる。自由で、豊かな人生を約束する「ホ・オポノポノ」のすべてがここに。」

ただねぇ、これは好みの問題でしょうが、やはり精緻な唯識のほうがおもしろそうですよね。

バカチョンカメラと高級一眼レフカメラ、どちらも写真は撮れるのですが、撮れればいいというものでもないでしょう。露出が足らないとか、ピントが甘いとかいってみたいよね。

猿の詩集(上・下) / 丸山健二 読みました

猿の詩集〈上〉読みました。

戦争で死んだ兵士が、霊となって故郷に帰り、原爆の爆発のショックからか居合わせた年老いた猿の体に、詩人の魂、鳶の視覚と合体して戦後の故郷を見守るという筋書きです。

文章は、詩人の魂と合体したわけですので、散文詩のような、リズミカルな文体で書かれており、読後しばらくは耳に残ります。読み終えるのに4-5日かかりましたが、個人的ですが、その間、戦争経験のある親父が、非常に近くにいるような感覚がありました(親父は30年くらい前に他界しています)。

夢などにでてきたのですが、とくに因果関係には気づきませんでしたが、おそらくこの本の影響かと思われます。読書前にも、親父のことはきになっていたので、逆にそのことがこの本に巡り会わせてくれたのかもしれません。

最近読書したのは、佐野眞一の「だから、君に、贈る。」手元に未読の「スタッズ・ターケル自伝」があり、普通の人々の生活に関心がある書籍が偶然に並ぶこととなりました。なにか意味があるのでしょう。

この本は、戦後を生きた人々の生活を、猿の体、詩人の魂、鳶の視覚と死者の観点からあますところなく伝える本に仕上がっています。