瞑想歩行中に経験したリモートビューイング

黒住宗忠ではありませんが、太陽の陽ざしを浴びながら歩くのは好きです。帽子をかぶっていたら、脱いで、頭に陽があたるようにして歩きます。姿勢を良くして、意識を太陽に向けると、あっという間に変成意識に到達します。

今から十数年前、90年代にこのような状態で歩行していたら、リモートビューイングを経験してしまいました。場所は下記に埋め込みましたのでご参照下さい。

より大きな地図で 瞑想歩行中のリモートビューイング を表示

ここを瞑想しながら歩いていると、急に眼前にメタリックブルーのイメージが現れました。それは、聞こえてきた爆音とともに、イメージはバイクになり、走り出します。驚いて目を開くと、目の前の左手からメタリックブルーの大型バイクが現れ、そして去っていきました。

いまから考えると、バイクの起動音に意識が触発されてイメージを形成したのだと思います。イメージの視点から推察するに、ライダーの意識を共有したか、感知したかですね。また、サイカワの通用門側の起点を指摘できるわけですから、あたりのイメージをも感知していたと思われます。イグニッションキーを回す覚えもありますから、前後の時間も感知していたというか、爆音の発生する前も含有していたことになります。

イメージの想起した段階では、なにがおこったかわからず、しばらくしてから、左手からバイクが登場してきて、イメージのなかの爆音とバイクのカラーが一致しているというえ、リアルタイムで重なっているわけです。もちろん、さらにわけがわからくなって、バイクが眼前から消えてしばらくしてから、全体像がわかるようになった。つまり、リモートビューイングだったんだとわかったわけです。

メタリックブルーは太陽の光を浴びて光っていました。

子どもはみな前世を語る

子どもはみな前世を語るを読んでいます。寝る前に読んでいるのですが、531頁もあるので、半月ぐらいかかっているかな。現在は400頁目あたりで、もう少しで読み終わります。以前に、猿の詩集(上・下) / 丸山健二を読んでいるときに、父親を身近に感じたのですが、この本を読んでいるときに子供たちの存在を感じました。

原題は”Children’s Past Lives”。著者、キャロル・ボーマン(Carol Bowman)が、実の子供達が過去世を語っていることに気づき、その劇的なヒーリング効果などを眼前に見ることにより、過去世療法、退行催眠などを学習し、研鑽、追求していく本です。理屈のみではなく、実生活に根ざした体験なので、説得力があり、著者の研究の成果なども交えての進捗状況も、貴重なものであります。『前世療法』の著者、ブライアン・ワイス、輪廻転生のイアン・スティーブンソン氏をはじめ、おもだった、前世や輪廻のキーパーソンにも言及、参照しているので、そのあたりの勉強している人にはお薦めできる本です。

ちなみに“past life regression”でyoutubeを検索してみたらかなりのムービーが並んでいました。時間のある時にゆっくり鑑賞するつもりです。言葉がゆっくりなのでヒアリングの勉強になるかななどとも考えたりしました。

さて、この本から今回ご紹介するのは、子供がエンジェルだったはなしです。(338-339頁)

 

【小さな赤い車】
これは、子どもたちが「受胎するずっと前に、両親の周囲を浮揚していた」と語っている、数多くの事例のうちの一つである。この事例を私に伝えてくれたのは、ワシントン州に住むジュデイーという母親だった。
それは、彼女の二歳の娘ジェシカが、どうしてママはいつも車椅子に乗っていて、他の人たちのように歩けないのかと尋ねてきたときに始まった。二歳の子どもに理解可能な言葉を用いて、ジュディは、彼女の足を不自由にした交通事故のことを話して聞かせた。するとジェシカは言った。
「私、そこにいた」
「そんなはずはないわ、ジェシカ。ママがまだずっと若くて、結婚していなかった頃のことなの…」
私(ジュディー)は言いました。「あなたはまだ生まれていなかったのよ」
「私、そこにいた」彼女は静かな自信を漂わせながら、同じ言葉を繰り返しました。
とっさに私は、彼女の話を真剣に聞く必要性を感じました。
「どのあたりにいたの、ジェシカ? ママはあなたがいることに気づかなかったんだけど」
「あそこで.座って見ていたの。ウー、ウーって言う車が来て、ママを連れて行くまで」
私は唖然として尋ねました。
「そうやって、ママがもう大丈夫だということを確かめようとしていたわけ?」
「うん」そう言うと彼女は、私の車椅子から手を離し、走って遊びに出かけていきました。
私はこのジェシカとの会話を、その後何日にもわたって、気がつくと頭の中で反芻していました。私にそうさせたのは、彼女が言ったごとそのものというよりも、そのときの彼女の真剣な表情でした。
私は母に、この会話のことを話しました。すると母は、サラッと言ったものです。
「あなたに守護天使か何かがついていたことはわかっていたわ。でも、それがあの子だったなんてね。そこまではわからなかった」
二週間後、もっとビックリすることが起こりました。ジェシカが突然、部屋に入ってきてこう言うのです。
「あのときママは、小さな赤い車から投げ出されたのよね? それで大怪我をしたのよね?」
「そうよ。車から投げ出されたの。でも、赤い車だったかしら?よく覚えていないな」
ジェシカは自信ありげに繰り返しました。
「小さな赤い車がママを投げ出したの。それでママは、怪我をしたの」
私はハッとしてその小さな天使を見つめました。小さな、赤い車……そうだ。そうよ。思い出したわ。確かにそうだった!あの車は、小さな赤のフォルクスワーゲンだった!

男女のハートに弓矢をあてて恋の成就に手助けをするというキューピット。あのキューピットはお父さんとお母さんを選んで結びつけ、その子供となって生まれて来るという話を、最近なにかの本で読み、なるほどなあと思っていた矢先、この話に出会いました。

いつか見たいと思っていた僕の天使。実はこどもたちだったんだね。サンキュー!

坊主は新しいのが好きなんじゃない

坊主は、実は私のあこがれの職業です。いつか出家したいと思っています。坊主は常に最先端の新しいもの好きでいて欲しい。そう思っています。

最近流行のスマートフォンも実は興味津々。いつかオーナーになろうと思っています。ちょっとした不安もあります。スマートフォンとトヨタのハイブリッド車は、あまりにもありすぎ。街で石ころをぶつけるとどっちかには必ずあたると思います。そういった現象は、やはり異常で、レミングスではないですが、どっかの沼に大量廃棄になってしまうのではないでしょうか。アマゾンブックストアでは、ベストセラーの本やCDは中古で1円になっています。スマートフォンやハイブリッド車も一円になってしまうのではないでしょうか、近い将来。ちょっと楽しみではあるのですが・・・。

そんな私が日経新聞の記事にがっくりしました。スマートフォン嫌いの坊主のインタビュー記事です。以下にご紹介。

情報端末から距離を 人と「つながる」は錯覚 月読寺住職 小池龍之介氏
インタビュー領空侵犯 2010/12/20付
――スマートフォン人気に異論をお持ちだとか。
「デジタルツールを通じて人と人がつながるといわれますが、それは錯覚です。ネット空間の情報の海の中で誰もが共通して強い関心を抱くものがあります。それは『自分の所在』です。自分が人からどう扱われているか、大事にしたいと思われているか……。すごく気になるのです。皆から認められたいというのは、誰もが抱く気持ちですが、自分あてのメッセージが生存に役立つ情報だと錯覚されています」
――ツイッターやメールですぐに返事が来ないと、寂しくなりますね。
「ネットで何か発信すると10秒後に答えが返ってきたりします。すると、あ、相手をしてもらえた。つながっているんだな、と感じます。その瞬間は気持ちがいい。ここに大きなワナがあります。うれしいと感じる脳内の作用に“慣れ”が生じるからです」
「返事を早くもらえないと不安になり、不信感や怒りに襲われます。しかも次の反応が来ても前ほどは気持ちよくない。何か足りない感じがして、もっと速く、もっと多く、という循環に入り込みます」
――ネット疲れ、ネット中毒という言葉もあります。
「情報端末から得られるのは、主に記号情報です。会話する相手の顔や声はなく、文字やアイコンだけです。人間の脳は、記号からイメージをバーチャルに再構成する性質を持っています。言語は抽象度が高い伝達手段なので、受けとる側は情報を変形、加工しなければならない。いくらでも連想ゲームを発展させることもできます。その作業を行うとき、私たちの心はとても疲れるのです」
――ネットへの依存が高まると、どうなりますか。
「バーチャルな情報処理量が増え、心の負荷が高まり、心が現実からどんどん離れてしまいます。それでも、ちっぽけな快感を得ていないと安心できなくなり、絶えず情報端末にアクセスするようになる。一瞬の快楽をもたらす脳内物質のドーパミンは、生物の生存に役立っていますが、野放しにすると暴走します」
――とはいえ情報ツールは買い物などに便利です。
「ネット空間で本当に売られているものは何だと思いますか? 実は『自分』が商品になっているのです。誰かに見てもらえる。誰かとつながることが商品になっている。つながりが欲しいということは、裏を返せば、みんな寂しいということです。寂しさが商売のネタになっているといえるでしょう。情報ツールと距離を置かないと、人は現実の身体感覚を忘れ、言語だけであれこれ考える“脳内生活”になってしまいます」
<聞き手から>
思い当たるふしがある方は多いのではないか。メールやネットの掲示板は気にし始めると気になって仕方がない。小池氏の著書や座禅道場の人気の裏側には、自分の心の在りかを見失ったネット空間の迷子が大勢いるに違いない。高機能の情報端末に人間が振り回されるのでは困る。寂しがっている場合ではない。(編集委員 太田泰彦)
こいけ・りゅうのすけ 1978年生まれ。山口県出身。東大教養学部卒。東京・世田谷の月読寺の住職。瞑想(めいそう)の修行を続ける一方、一般向けに座禅の指導をしている。著書『考えない練習』などが反響を呼んだ

小池龍之介氏は当ブログで取り上げたこともあります。期待していたのですが、残念です。インタビューではもっともらしいことをいっていますが、全然おもしろくないです。

ネット空間に限らず本当に売られているものは自分を含めて空しいものばかりではないですか。バーチャルといえば、いわゆるリアルそのものもバーチャルなわけで、ネット空間がバーチャルだとかリアルではないなどとはいえないわけです。色即是空、空即是色とはそういうことでしょう。

「情報ツールと距離を置かないと、人は現実の身体感覚を忘れ、言語だけであれこれ考える“脳内生活”になってしまいます」というのもおもしろくない。むしろ、情報ツールと距離をおかないで、現実の身体感覚にしてしまえば、言語を超えた身体知をも拡大することができるのではないかなどと想像力を羽ばたかせて欲しいな。

実際に、聴覚とか視覚とかがなくなった人でも電子機器を脳が感知できる生物信号に変換して直接脳につなげている時代です。立花隆がNHKの番組で紹介していたことがありますが、最先端科学はすごいです。当初は電子機器の精度が粗く、とても実用には耐えられないといわれていたのですが、実際に脳に接続してみると、脳が変化(進化)して十分に実用になっていった。そのうちに電子機器も進化して精緻になり、脳の進化との相乗効果が飛躍的なものになってしまったということです。

生まれつき耳の聞こえない人、目の見えない人でも、若い年代であれば、電子機器でも脳に馴染んでしまうと言うことです。

シリコンのコンピューターも、バイオコンピューターに変わっていくでしょうし、人間と電子機器の融合もさらにすすんでいくと思われます。そういった時代に、「情報ツールと距離を置かないと、人は現実の身体感覚を忘れ、言語だけであれこれ考える“脳内生活”になってしまいます」なんてことはまったくおもしろくない意見です。

それから「 実は『自分』が商品になっているのです。」なんて、使う場所がちがっています。資本主義が生起した時点で、すべて、ありとあらゆるもの友情も、恋も、時間も、森羅万象を貨幣価値に換算してしまうというのが、資本主義に内包された矛盾だったわけです。人間疎外とは、その矛盾をある意味言い換えたものなのです。卑近な例では、三高、つまり高身長、高学歴、高収入なんかがまさに貨幣換算です。身長も、学歴も収入も貨幣換算してしまうから、一律に意味を持つことができるわけです。身長が高い方が幸せ、学歴も高い方が幸せ、京都大学よりも東京大学の方が幸せ。年収1000万円より、年収一億円の方が幸せ。

実際、「幸せ」なんて、誰にもわからないことでしょう。それがいとも簡単に貨幣換算してしまうい、比較して判断できてしまう。簡単といえば簡単だが、それはあくまでもバーチャルで、リアルではないわけです。実際に、身長が高くても幸せであるはずがない、学歴も収入も、どこまでいっても満足できずに、むしろ不幸に不幸になってしまう。

そういったことを、ねじ曲げるようにネットとか電子端末のせいにするのは、間違いです。特に、坊主がマスコミで喧伝したら罪ですね。多くの人々を迷妄の世界に誘導してしまうことになる。

「一瞬の快楽をもたらす脳内物質のドーパミンは、生物の生存に役立っていますが、野放しにすると暴走します」などというのももっともらしい迷妄の所作です。パチンコで何万円もすった方が情報端末より、麻薬効果があるでしょうし、キャパクラで馬鹿騒ぎするほうがドーパミンは出るでしょう。そもそも、現代の資本主義社会で、いらないものも消費させるためには、ドーパミンは必要不可欠なもので、世に氾濫する3s(スピード、セックス、スリル)こそ、資本主義のアフターバーナーですよ。オートショーとか、レースには、水木姿の美人やレースクイーンがなぜいるのか、そういったことでしょう。それを、言うに事欠いて「情報端末にドーパミン」はないでしょう。

ここまで読んでくれた方には、もう一度引用したインタビュー記事を読んでください。いかに、意味のない記事であるかが実際に認識できると思います。

結論ですが、坊主もスマートフォンも悪いわけではありません。はさみとなんとかは使いようです。

いつかは、スマートフォンを持って出家してみたいなあ。

天国と地獄―アラン・カルデックの「霊との対話」

天国と地獄―アラン・カルデックの「霊との対話」読みました。1800年代の書物なので、わかりにくい箇所もあるこのだが、総じてわかりやすい書物でした。164-168頁、自殺者との対話が説得力があったな、以下にご紹介します。

第四章自殺した入の霊
公衆浴場で自殺した身元不明の男性
一八五八年四月七日、夜七時ごろ、こざっぱりした服装の五十代の男性が、パリの、ある公衆浴場にやってきた。サ-ヴィス係の少年は、浴室に入ったその男性が、いつまでたっても自分を呼ばないので、不審に思って浴室をのぞいてみた。そして、そこで、見るも無残な光景を目撃したのである。その男は、剃刀で喉を掻き切っており、浴室中に血が飛び散っていた。身元の確認ができなかったため、遺体は死体公示所に運ばれた。
死後六日たってから、パリ霊実在主義協会において、この男性の霊を招霊したところ、次のような問答がなされた。
-招霊します;::。
霊媒の指導霊からのメッセ-ジ:「ちょっと待ってください。いまそこに来ていますから」
-いま、あなたはどこにいますか?
「分かりません……。ああ、私がいまどこにいるのか教えてください」
-あなたは、いま、霊実在論を研究している人々、あなたを好意的に迎えようとしている人々のあいだにいます。
「私はまだ生きているのですか……。棺桶の中で窒息しそうです」
彼の魂は、肉体から離れたとはいえ、いまだに混乱したままである。地上で生きていたときの感覚が強くて、自分が死んだとは思えないのである。
-ここに来るように、誰かに勧められたのですか?
「何か、ほっとしたことを覚えています」
-どうして白殺などしたのですか?
「では、私は死んでいるのですか……。いや、そんなことはない……。まだ、体の中にいますから……。私がどれほど苦しいが、あなたがたには分からないでしょう。ああ、息が詰まる!誰か、優しくとどめを刺してくれないだろうか?」
-どうして身元を確認できるようなものを何も残さなかったのですか?
「私は、みなに見放されたからです。苦しみから逃れようとしたのに、これでは、まるで拷問です」
-いまでも身元を知られるのはいやですか?
「ええ。どうか、血が噴き出している傷口に、赤く焼けた鉄を押しつけるようなまねはしないでください」
-お名前、お年、職業、住所を教えていただけませんか?
「いやです! どれも教えたくない」
-家族はおありでしたか?奥さんは?子供は?
「私は、みなから見放されたのです。もう誰も愛してくれません」
-どうして、そんなことになったのですか?
「ああ、どれくらい多くの人が私のようになっていることだろう……。家族の誰からも愛きれなくなってしまった……、もう誰にも愛きれないんだ-・」
-いよいよ白殺をしようとしたとき、ためらいはなかったのですか?
「とにかく死にたかったのです……。疲れ果てていたので、休息が欲しかった」
-「将来のことを考えて思いとどまる」という可能性はなかったのですか?
「私には、将来は、もはやありませんでした。希望をすっかリ失っていたのです。希望がなければ、将来のことなど考えられません」
-生命が失われる瞬間は、どんな感じがしましたか?
「よく分かりまぜん。私が感じたのは……。だいたい、私の生命はまだ失われていません……。私の魂は、まだ体につながっています。ああ、蛆虫が私の体を食っているのが感じられる-」
-死が完了したとき、どんな感じがしましたか?
「死は完了しているのですか?」
-命が消えていくときは、苦しかったですか?
「その後ほどは苦しくなかった。そのとき苦しんでいたのは体だけだったから」
-(聖ルイの霊に対して)この霊は、「死の瞬間には、その後ほどは苦しくなかった」と言っていますが、これはどういうことですか?
「死の瞬間に、霊が、その生の重荷がら解放きれつつあったのです。そういう場合には、解放の喜びが死の苦しみにまさることもあります」
-自殺した人の場合、常にそうなるのですか?
「必ずしもそうではありません。自殺した人の霊は、肉体が完全に死ぬまでは、肉体に結びつけられたままです。それに対して、自然死は生命からの解放です。自殺は生命を破壊することなのです」
-意志とは無関係に、事故で亡くなった場合でも、同じなのですか?
「いいえ・.・…。あなたは白殺をどう考えているのですか?霊は、自分のやったことに対して責任を取らざれるのですよ」
死んで間もない人が、自分が死んでいるのかどうか分からない状態になるということは、実に頻繁に観察される。特に、自分の魂を肉体のレヴェル以上に向上させなかった人の場合には顕著である。
この現象は、一見、奇妙に思われるが、ごく自然に説明できる。
初めて夢遊症に陥った人に、眠っているかどうか尋ねた場合、必ず「眠っていない」と答えるはずである。この答えは極めて論理的なのだ。非は、不適切な言葉を使って質問した側にある。
「眠る」という言葉は、一般的な使い方では、あらゆる感覚器官が休息することを意味している。ところが、夢遊症者は、考えられるし、見られるし、感じ取ることもできるのである。したがって、自分が眠っているとは思わないし、実際、言葉の普通の意味においては眠っていないのである。だから、彼は「眠っていない」と答えるのである。
これは、死んだばかりの人間についても言える。彼にとって、死とは、すべての消減を意味していた。ところが、夢遊症者と同じく、彼は、見ることも、感じることも、話すこともできるのである。したがって、彼にとっては、それは死を意味していない。だから「死んでいない」と言うわけである。
それは、彼が、この新たな状態について、しっかり理解するまで続くだろう。
この状態は、いずれにしても、つらいものである。なぜなら、それは不完全な状態であるために、霊をある種の不安定な状態に投げ込むからである。
右の例では、蛆虫が体を食っている感覚があるだけに、苦痛はより激しいものとなっている。
さらに、その状態は、彼が命を縮めた年数分だけ続くことになるので、いっそう、つらいものとなるだろう。
こうした状態は、白殺者において一般的に見られるものであるにせよ、常にそうであるとは限らない。特に、苦しみの強度と期間は、白殺者の犯した過ちの大きさに左右される。
また、蛆虫の感覚や、体が腐敗していく感覚も、白殺者特有のものであるとは言えない。それは、精神的に生きず、ひたすら物質的な享楽を求めて生きた人間が死んだときに、よく見られるものである。
要するに、罰せられない過ちはないということなのである。しかし、罰の与え方に、画一的で普遍的な法則はない。

蛆虫などの感触は、土葬が前提となっている。寿命(自然死)と自殺した日、すなわち寿命を縮めた分だけ苦しむというのはこの本以外では読んだ覚えはない。夢遊病者の例えはユニークかつわかりやすかった。

ヨガと超心理 本山博 その2

ヨガと超心理―ヨガ,超心理,鍼炎医学 (1972年)について、前回は呼吸について述べましたが、今回は念力の箇所についてです。

著者は鍼炎医学を応用し、皮膚電流をしらべることで念力を調べるのですが、このように皮膚電流を調査するのが、著者の科学的足りうるところで、他の著書にも電位差のグラフなどはよくでてきます。それが、私の苦手なところではあるのですが、そのテストについての箇所(p148-150)を紹介します。

Single-Pairテスト
以上のようないろいろなテストをしたのは、要するにこれはpKの発現条件を調べるための一つの前段階なんです。こういうことがわかった上で、今度はPKが発現する、或は働く場合は、生命力或は気というものがどういう状態にあるかということを、だんだん調べていったわけです。先ず二人一組の一人ずつについて、今言った井穴の左右差を測ってみたわけです。次は二人を同室にして座らせ、各人の左右の井穴差を同時に二台の測定測定器で測ってみると、一人の時と比べて、二人を同室に置くだけで、各人の白律神経の動きや生命力、気といいますか、(念力とでもいうか)、そういうものの動きが非常に変わります。
右のような実験の結果から、次のようなことがわかりました。それは二人以上の人間が同じ所に同時におった場合、今この会場には沢山の入がおるわけですが、ここにただ一緒におるだけで、互いに人間の間には身心共に影響があるというわけです。それが意識されようとされまいと、人閻の身体の上では非常に大きな変化がおきている。特にどういう所でおきているかというと、胃の経絡、脾臓の経絡、腎臓と三焦の経絡、こういうものに大きな変化が、一緒にいるだけで生じてくる。三焦経というのはさっきも申しましたように、今の医学ではわからないのですが、昔の支那の医学やヨガのプラーナの説明によれば、根源的には一つである生命力が、生命を維持するために三つに分かれて身体の各部を動かし、生かしている。この三つの生命力、気を三焦と呼び、この三焦の動向と密接不離の関係にある経絡が三焦経であります。この三焦経に、二人以上の人間が同所に同時に入ると、意識するとしないにかかわらす、大きな変化の生ずることが判明しました。つまりニ人以上の人間が同時に入るだけで、各人の生命力の動向に変化がおきるのですから、この三焦、つまり生命力、気は、互に他人の気に影響を及ぼす、念力、サイコキネシスのようなものとも思えます。
右で話したことは、一人でいる場合に比べて二人でいる場合には、各入の各経絡の気の動きがどういうふうに変わるかということをみてみたのですが、いろいろな組み合わせをしてみると、次のようなことがわかりました。それは、母親と予供とを組み合わせた場合、夫婦を組み合わせた場合。姉妹を組み合わせた場合、兄弟を組み合わせた場合、非常に面白いのは、親から子供へ、夫から妻へ、兄から弟へ、姉から妹へというふうに、変化の非常に大きい側は、母親と子供の場合ですと、子供の方です。それからまた、妻、妹、弟というふうに、どっちかというと相手に対して従う態度をとっている方ですね。ただ何もしないでおるだけで、両方同時に測る訳ですが、その場合に、従の態度をとっている方に大きな変化がおきる。これは催眠現象についても言えるわけです。
それから霊能者と普通の人、強い霊能者と弱い霊能者を組み合わせてみると、とにかく霊能者から普通の人への影響の方が非常に大きいわけです。どっちも変化は起きるのですが、普通の人の方が大きた変化を示すし、強力な霊能者と弱い霊能者の二入を置いた揚合は、どっちにも変化は起きますが、弱い方に変化がよく起きるようです。従って、二人以上の人間が同時にいる時、各人のもつ霊能の強弱によって各人に生する気の変動の程度が異なってくることがわかります。この霊能の強弱の相違が、pK現象を起こす一つの条件のように思われます。
わかりやすく言うと、好むと好まざるに関わらず、人はお互いに心身をつうじて干渉しあうと言うことです。気のせいかと思っていたかもしれないが、物理的に経路に変化をきたし、ひるがえって、五臓六腑に現実的に干渉する。とくに弱い部分、胃や肝臓など、弱っている部分には大きく干渉する(上記以外のところで述べています)とのことです。干渉しあう方向としては、強い方から弱い方へという流れがあるということです。
念力に関しては、ポルターガイスト現象があるところに子供がいるとよくいわれています。念力に限らず、世の中の矛盾は弱いところにあらわれます。子供は弱者の端ですから、ここにあらわれる現象には注意しなくてはならないのでしょう。強いものは弱いものに対して大きな責任をもっています。学校の先生や、子供を持つ親には意識してもらいたいところですね。
話は若干かわって、お見合いの名人になると、うまくいくお見合いは、匂いがするそうです。それは、出会いが経路に影響を与え、男女それぞれの分泌器が反応するのでしょうね。