広島、長崎、原爆、そして終戦

8月は、日本人にとって、平和を考える月である。広島原爆の日が8月7日、長崎原爆忌の日が9日、そして終戦記念日が15日。

戦争や核爆弾のない世界を、夢ではなく現実にすることができるのかは、大きなテーマだが、今日は、過去に、現実に行われた平和活動(失われた文明―一万二千年前の世界 (講談社現代新書 274) 165-168ページ)を紹介しよう。

アショカ王の秘密結社-九未知会

インドを統一したチャンドラグプタの孫であったアショカは、白分の偉大
な祖父の名をけがさないような人間になりたいと考えた。統治者にとっては、戦争こそ、白分の名前を永遠に残す最も確実な手段だった。彼は軍隊を率いて、隣りのカリンガ王国に向った。カリンガの住民たちは、必死になって抵抗した。ある戦闘では、アショカの兵士たちは敵兵を七千人以上も殺した。戦闘が終わったばかりの戦場にアショカはやってぎた。彼は死体が一杯横たわっている光景をながめて、強いショックを受けた。
それ以来アショカは、残された生涯のすべてを科学の振興、仏教の普及、建設活動に捧げた。戦争の悲惨さが彼に強い印象を残し、人間の頭脳と知識が人間の殺し合いに向けられることの絶対にないよう全力をつくす決心をしたと伝えられている。そのためにアショカは、これまでに存在した秘密結社の中でも最大といわれる結社、九未知会をつくった。
この結社の目的は、人殺しの手段についての知識が人々の手に入るのを防止することにあった。この結社は、今日でも存在し続けているという意見がある。たとえば、カルカッタ駐在のフランス第二帝国領事で、インドについての名著をたくさん書いているジャコリオである。インドが植民地だった時代に駐在していた意義ら崇神していたイギリス人=高官もまたこのような意見を述ぺている。

この秘密結社が二千年を経た今日でも、なお存続していると断言するためには、まだ十分な資料をわたしたちはもっていない。とはいえ、このような目的をもった結社がかつてつくられたということそれ自体が、非常に大きな意義をもっているのである。

アショカは、知識が破壊のために使われないようにするため、高度の知識は、秘密にしておこうとした。しかし、このように行動したのは、アショカが唯一の人間ではなかった。先見の明あるすぐれた統治者や政治家はこのように行動している。今日の言葉を使うなら、「大衆殺戮の兵器」と称すべきものは、過去において、使用が禁止されていたのである。

しりぞけられた「人殺し兵器」

一七七五年、フランスの発明家、デュー・ペロンが国王に謁見を申し出た。彼の言葉によれば、フランス国家の将来はこの会見にかかっていた。デュー・ペロンは、自分が発明したものを国王に直接打明けようと思った。ルイ十六世は、デュー・ペロンとの引見に同意した。デュー・ペロンの助手たちは、入念に包装した大きな箱を宮廷の庭園にもちこんだ。それから退場していった。デュー・ペロンは、どんなに強い敵でもいとも容易にたおせるような武器を、発明したのだった。この武器が採り入れられたら、フランスは国王の好きなように、領土の拡張ができるであろうと述べた。彼が示した武器は、今日の機関銃の元祖ともいうべきものであった。それは一度に二十四発も弾丸を発射することができた。

だが、デュー・ペロンは、国王から称讃の言葉を受けることができなかった。国王はぺロンの言葉を冷たくさえぎって、引き退がるように命令した。ルイ十六世と彼の大臣たちは、デュー・ペロンの発明を「入殺しの野蛮な兵器」としてしりぞけたのであった。デュー・ペロンは、ひどい悪者、人類の敵と宣告された。フランス国王はデュー・ベロンが発明した武器が、どこか他の国王の手に入るのを心配して、これを防止する手段をとっている。

これ以前の時代は、弓と矢が最も恐ろしい殺人兵器と考えられていた。ローマ法王はこれの使用を制限しようとして、特別勅書を出している。それはばね仕掛けの大弓の照準を、より正確に定めるための三脚台その他の台を使用禁止にしたのである。「このようなやり方は弓の射手の品性をひくめ、たたかいを非人間的なをのにする」と勅書のなかではいわれていた。この禁止命令は、その後二世紀間守られた。アフリカのペチュアナランド(ボツァナ)の国王の一人、シャムバ・ボロンゴンゴが戦闘に投槍を使うのを楚止しているのも、右と同じような入道的配慮からである。