そして再び 「彼岸の時間」

人類の発祥、神々の叡智、文明の創造、すべての起源は「異次元(スーパーナチュラル)」にあった100%実話!自然霊との対話 上丘 哲 (著)と紹介してきたら、ふたたび「彼岸の時間―“意識”の人類学」に戻らねばならないと思いました。

本を開いて最初のページ、「はじめに」を紹介します。

古代インドの奥義書『マーンドゥキャ・ウパニシャッド』は、人間の意識がとりうる状態を四種類に分類している。その四種類とは、日常的な覚醒状態、夢のない眠り、夢を見ている状態、そして、一種の超越的な意識状態、であり、この第四の意識状態こそが人間にとって、もっとも本来的な覚醒状態なのだという。

人間は特定の訓練によって、あるいは特定の状況下で、この「第四の意識状態」を体験する。それは、さまざまな側面から、トランス、悟り、サマーディ、神秘体験、変性意識状態、シャーマン的意識状態、エクスタシー、法悦、サイケデリック体験、至高体験、トランスパーソナル体験などと呼ばれてきた、一連の非日常的な、しかし古今東西の入間が共通して体験してきた意識の状態である。そこでは日常的な〈俗なる〉時間は停止し、一瞬が永遠であるような〈聖なる〉時間の中で、人は世界の根源的な神秘に触れる。

おそらく人類は数万年の過去から、シャーマニズムやトランス・ダンスという形で、この「第四の意識状態」を、個入的な美的体験として、また社会的な問題解決の技術として活用しながら生きてきた。しかし、われわれの祖先が定住的な共同体を拡大させ、さらに中央集権的な権力を発達させていくにしたがって、「第四の意識状態」は宗教というイデオロギー装置の管理下に置かれることになる。宗教は一方では土着的なシャーマニズムの思考をより普遍化することによって科学と思想の母となったが、一方では超越的な意識状態を現世的な権力に迎合させる装置としての役割も果たすこととなった。宗教は神秘的な経験の領域を、自らの教義に合致するように統制する云で、合致しないものは排除した。シャーマニズムはどんな時代にもどんな場所にも存在したが、それはオーソドックスな宗教からはつねに排斥される存在であり、世界の神秘に褒触れようとした神秘主義者たちは・宗教的権威から繰り返し異端視されることになった。

近代のイデオロギーである資本主義もまた特異な形態の宗教だといえる。貨幣を至高な呪物(フェティッシュ)として崇拝する資本主義経済への信仰は、因果性の原理にもとずく高度な科学技術を武器にして、生態系を破壊し、共同体を破壊し、既成宗教の権威をも破壊しつつ、その勢力を全地球規模で広げてきた。近代社会の教義はいわゆる「覚醒状態」を唯一のリァルな意識状態だと考え、睡眠や夢は誰もが経験することは認めてもそれ自体に意味があるとは見なさない。さらに「第四の意識状態」に至っては、存在すること自体が異常と見なされる。これは、「第四の意識状態」こそが本来的な経験なのだというウパニシャッドの思想とはするどく対立する。

しかし、いわゆる先進国でも、無限に発展を続ける貨幣経済が楽園の到来を約束するという神話を信じることが難しくなりつつある現在、かといって既成宗教が求心力を失ってしまっている状況の中で、人々の呪術的シャ-マニズム的なものへの関心はふたたび高まりつつある。救命医療の飛躍的な進歩は逆説的なことに臨死体験者を増加させている。象徴的な〈死と再生〉を経験した臨死体験者は、資本主義的な競争原理への関心を低下させ、神秘的な経験の領域への関心を深める。しかし、だからといって既成宗教への信仰へと回帰することはない。資本主義と科学技術の燗熟した時代の中で、「第四の意識状態」がふたたび宗教という装置の検閲を経ない生の形で経験される状況が生まれてきている。われわれの祖先が狩猟採集民だったころの、いわば野生の神秘体験が復権しつつあるのだ。しかも、宗教の権威から白由であるというだけではなく、現代という時代は、シャーマニスティックな「霊魂」という実体概念からも自由でありうる。人類史上、意識の神秘それ自体について語れるようになった初めての時代だといっていい。

資本主義的世界システムの勝者である「先進」社会の一端を成しながらも、西洋社会に比べてキリスト教的な権威や、その裏返しの東洋趣味(オリエンタリズム)からも自由であり、またかつてのソ連や中国のような国家的な唯物論信仰からも白由な、極東アジアの日本という不思議な場所から、「〈意識〉の人類学」を語り始めることにしたい。

紹介してきた関連書、”ハンコック”も”自然霊”も含まれる状況認識がさなれていると思います。否定的でなく、肯定的な捉え方は好きですね。

ということで、今後も折に触れ、この書籍について語ることがあると思いますのでよろしく・・・。